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postman@1101.comから。

日本語ってやつは。

9月7日のダーリンコラムは、
<いま現在の日本語のことなど>という題でした。
(読んでない方は、是非ご一読を!)
こうして生きているあいだも、
考えてるときの言葉は日本語だったりするわけで、
やたらと身近なことですので、
メールをざんざかざかざかといただきました。
たっぷりとご紹介いたしますね〜。
ちょっと長いですが、さまざまなご意見など、
読んでみて下さい。

申し遅れました、今回の担当はモギでございます。


●口語体のこと、難しくしないこと。


口語体に近付いて行くというのは、
ぼくもそう思ってます。
「文字を書く」という行為も、
コミュニケーションツールのひとつなわけだから、
人間の一番自然なコミュニケーション手段である
「しゃべる」に近付いていくのは
自然なことなんだろうなぁとか思ったりしてます。
「書き言葉」に権威を持たせる意味が
あまりなくなってきたこの時代に、
あえて難しく書く必要があるのか?
それがなくなってきたから、
そういうふうになってるんじゃないかって思います。
「なんのために書くのか?」ってとこが
ポイントなんだろうと思います。
いまほとんどの人は、
いまぼくがこうやって
ほぼ日に感想をメールしているように、
「自分の思っていることを誰かに伝えるため」に
「書いて」いるわけで。
別に、自分は難しい文章が書けるんだとか、
自分は頭の良い文章が書ける人なんだ、
一般人にはわかんない難しいことまで知っているんだ、
頭の悪いヤツにはとうてい理解できないでしょ!?
とかって威張ったり自慢したり
見せびらかしたりするために「書いて」いるわけじゃ
ないっすもん。
(そう。)



レイモンド・チャンドラー著
清水俊二訳『長いお別れ』を
じっくり読んでいるのですが、
この一般にハードボイルドと呼ばれている
この小説は名訳だと思います。

じつにひらがなが多いのです。
簡単な漢字を使えることばも
ひらがなで表記されています。
翻訳家清水さんの表現方法を感じます。
ひらがなで書くことの意味はなんなんでしょう?
硬いイメージが先行するのですが、よくみると、
じつはひらがなが多いのが、不思議です。

文章に漢字がおおくなると重たいかんじがします。
ひらがなばかりでは読みにくい。
ですます調は硬いけど、
話し言葉はやわらかいイメージです。

伝えたいことがあって、それを人に伝えるとき、
ぼくはついつい回りくどい言い方をしてしまいます。
また、だれかのせいというように、
責任転嫁をしてしまいます。
いま、気をつけていることは、シンプルです。
伝えたいこと、伝える相手、今まさにぼくの発しよう
としていることばは相手に届くのか、
どういう意味にとられるか。
考えてしまうと、たちどまってしまいそうになります。
でも、いいたいことがたくさんある。
できるだけ、
シンプルに伝えることを
頭のすみにおくようにしています。
(萩原秀紀)



インターネットが普及しているので、
たしかに口語体の文章を多く使うようになりました。
だから、確かにそういう
話し言葉は世の中に広まるのでしょう。
そして、話し言葉でたくさんの人に伝えるという技術が、
これから求められるようになるんですかね。
そうなるとやっぱりサービス精神が必要になりますね。

こういう言い方をすれば、相手はこう反応するだろう、
ということを把握することって、
僕にとってはとても大変なことではあります。
うまく表現することは多分技術であると思います。
これからは、文章の内容とともに、
いかに分かりやすい、
面白い文章であるかが求められるように、
なるんでしょうか。

漢字を使うことも大切だと思います。
うまく使えば、
多くの内容を一言で、簡潔に表現できるような気がします。
(masuda)


●わかりやすい=レベルが下がる?


自分も掲示板などに書きこむときは、
なるたけ平易なコトバで表現しているつもりです。
ボキャブラリーが貧困だってこともありますけど。
なので、自身も含めての国語「水準」低下が、
心配にもなるわけで。

伝えたいことが同じなら、
わざわざ難解な言い回しをする必要はないし、
いかに噛み砕けるかってのも才能でしょう。
けれど「受け手」としてソレに慣れきってしまうと、
わからないものに寄せる「想像力」を鍛える場を
放棄することになりはしないかと。
達人の技を万人に普及してあげようとする運動?も
根底ではつながっているような。
「ソフィーの世界」に対する嫌悪感に似たものを
感じてしまうんですよね。
まずは自分で考えてから、だっちゅーの。
イイことを分かち合えるってとこまでいければ、
とっても理想的かもしれませんが。

イマジネーション喚起のため、じゃないですけど、
たまに伝わりにくい文を書きたくなったりします。
わかる人にはわかるだろう、みたいなもんを。
ちょっとアタマ働かせてわかれよ、みたいな。
そして、誤解の雪崩現象を引き起こすことに・・・
あ、ちょっと論点ズレました。
ま、コトバだけで伝えることは、ムズカシイ〜と。
曖昧な言語国家ニッポンではなおさらのこと。
(とらふー)



(前略)
以前は漢字とハングル混じりの両方の表記が基本でしたが、
現代は新聞までもハングル表記一色となっています。
これは漢字の由来する中国からの離脱ということも念頭に
有ったようで、ローマ字表記も看板や広告を含め
ほとんど見かけられません。
現在はハングル表記だけの教育に対して賛否両論で、
漢字表記についても教育していくべきという意見が
有るようです。

日本は逆に文語体ならではの、わかりづらい表現を避け、
誰にでもわかる、口語体での意思伝達が促進されています。
インターネットが普及し、
携帯メールがより一層それを加速させているようですが、
糸井さんのおっしゃる皆の共通理解の水準を満たす、
「伝わりやすい文体」というものが訴求され、
出来上がるのは時間の問題でしょう。
言葉の進化の段階なのかもしれませんが、
国語理解度の低下のような退化という要素も
含まれている気がして、ちょっと残念です。

話し言葉だけではない、
書き言葉の日本語に美しい表現は多く、そこは
失わずに進化できないものかなと思います。
(こんのさやか)


●漢字とイメージ。


(前略)
それと漢字の視覚的効果についても
中国に来てからひしひしと感じるようになりました。
私の夫は西洋人なのですが、
例えば街を一緒に歩いていて
漢字の「餐店」という看板を見たときに
私の場合は
「あれは何だろう。ええと、あ、レストランか」などど
考える間もなくピピッと瞬時に情報が脳に伝わりますが、
彼の場合は視界にはもちろん入っているんだけれど、
景色をみているのと同じで
何らその看板が訴えるものがないっていうか・・・。
で、これってもうただ単に
漢字が「読める」「読めない」の次元ではなくて、
例えば「赤」という色を見た瞬間に
「赤」って理解するようなものなのではないかと
思ったりもしました。
英単語も「RESTAURANT」とあった場合、
「R」「E」「S」「T」・・・という風に
いちいちばらしたりせず、
その単語の全体の形が目に飛び込んできて
ぱっと脳に伝わると思うんですが、
そのプロセスが漢字の場合、
もっとヴィジュアル(?)というかイメージに
超高速で直接結びつくというか・・・。

と、時々一人でうだうだ考えたりしています。
言葉に限らず、色々なところで日本と
同じまたは似ている習慣や文化等に出会うたび、
「なんだ全部中国から来てんじゃん」という
感嘆と落胆と賞賛と
なんだかいろいろごちゃごちゃ交じった気持ちに
おそわれます。
(Arai)



書けないけれど読みと意味はわかる漢字、
というのをできるだけ沢山子供のうちに詰め込む、
というのはどうでしょう。
覚えてしまえば一生どんなに得をすることか。
なぜなら、同じ意味の文章を各国の言葉で並べたら、
内容を理解するスピードは、
仮名漢字交じりの日本語がおそらく一番ではないか、
と思うからです。

パソコンの文字変換能力のおかげで、
今まで書いたこともないような漢字がどんどん使えます。
漢字というツールを使いこなす事が、
伝える内容を速く的確にするための
一つの方法のような気がするのですが、
反ゆとり教育、落ちこぼれ作りにつながるのでしょうか。
(plum)



大学時代に、室町時代にイソップ物語を日本語に訳して
さらに、それがローマ字で書いてある本を、
現代語に訳し直す、
というわけのわからない授業を選択したことがありました。
その時の、仰げば尊し我が師の恩。
「言葉が変わる時というのは、
 情報がそれまでよりも、たくさん行き交う時。
 便利なように、変化しようとする。」
と教えてもらいました。
具体的には、奈良、室町、明治なんだそうな。

「日本語が変わってきている」と、
かなりの読者のみなさんがかいてくださっていました。
それを読むと、 インターネットの普及によって、
そういう、言葉が変化する時期が
やってきているのかもしれないなあ。
とちょっと思いました。

【オマケコラム】
さて、最後に、読者の方から
質問をいただくこともあるので、
日本語ついでに、ほぼ日のテキストについても
ご説明しちゃいましょう。

ほぼ日にアップされるテキストは、
句読点(、と。)か、もしくは、意味の途切れるところで、
改行をいれていきます。
そして、段落になったら、一文字さげるのではなくて、
一行あけるようにしています。

ずらずらと続いているテキストは、
とっても読みにくいなあということで、
ほぼ日の初期に発明した「字切り」なのです。

例えば、11日の「今日のダーリン」は、
普通は、こんな感じに、「焼き海苔」のようになります。
(20字詰めにしてみました)

9月11日というと、誰でも「あの日」と思う
ような特別な日になってしまった。いろんな
思いをそれぞれに抱いて、人々は今年のこの
日を迎えたわけだけれど、ぼくは、2001年
の9月13日に、ぼくはシアトルにいた。
 そこで書いたことを「ほぼ日」に送って、
このページに掲載したのだった。そいつを、
そのままペーストしようと思う。今年、読む
と、どんな感じだろう。ぼくは、同じ気持ちだ。


ほぼ日では、↓こんな具合になります。

9月11日というと、誰でも「あの日」と思うような
特別な日になってしまった。
いろんな思いをそれぞれに抱いて、人々は
今年のこの日を迎えたわけだけれど、
ぼくは、2001年の9月13日に、ぼくはシアトルにいた。

そこで書いたことを「ほぼ日」に送って、
このページに掲載したのだった。
そいつを、そのままペーストしようと思う。
今年、読むと、どんな感じだろう。
ぼくは、同じ気持ちだ。


はたして、この「字切り」は、
文章を書いていくうえで、
どんな影響を及ぼしているのかなあ、
という風に、たまに考えたりします。

スタッフの中には、
あらかじめ「字切り」をしながら書いていく人と、
書いてしまってから「字切り」をする人と両方いるのです。
ちなみに、著者の方からいただく原稿に関しましては、
ほぼ日の担当者が、「字切り」をしていっています。


それでは!




postman@1101.com宛てのメールは、
スタッフ全員が必ず読んでいます。
これからもご意見、ご感想をお寄せください。
アクセスの数字の後ろに「人」の姿が見えると、
スタッフ一同、なによりの励みになるのです。

postman@1101.com 宛に送ってもらったメールは、
このコーナーで紹介させていただくかもしれません。
掲載されちゃ困るメールには、「載せちゃイヤ!」と
書き添えてください。逆に「載せて!」と
書いてくれるのもけっこうです。

◆あと、無理じいするつもりはありませんが、
「ほぼ日」では、顔文字禁止です。
どうしても使いたい人に「やめろ」というつもりは
ありませんが。
(darling)

2002-09-13-FRI

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