president

社長に学べ!<おとなの勉強は、終わらない。>


第9回 共感してくれるように語る。



ぼくはいっぱいしゃべってきた相手は
たくさんいるんですけど、岩田さんは
たぶんベストテンにかならず入っていて……。

おもしろいのは、
岩田さんはこれだけロジカルに
ものを考える人なんですけど、
説得力のあるデタラメというのを、
ものすごく要求しますよね?
(笑)
ゲームを作っているときもそうですし、
世の中の話をしているときもそう。

それから、真剣に
なにか目の前にある問題について
答えを探っているときもそうでした。

岩田さんと会っているときには、
岩田さんはぼくに対して
「さぁ、ウソでもいいから
 なるほどと思えることをいう番ですよ」

とでもいうかのように、
じっと待っているみたいなんです。
ええ、それはそうです。
だからぼくもなんかいうんですけど、
そのときは
「ただしいかはわからないけど魅力のあること」
をいわざるをえなくなります。

それを伝えると岩田さんは、
いったんそれをまずただしいと決めてから
仮説を組みたてなおして、
その日をすごしていきますよね。
ええ、はい。
それであとでそれぞれに、
話しあったことを
「あれはちがっていたな」と思う場合もあるし、
「この要素を足せば、
 あの話はもっとおもしろくなる」
だとかまた思いなおすことができる。

正解を探すことよりは、
「豊富さ」を選ぶといいますか……
どれだけおもしろいことが
数珠繋ぎで出てくるかという考えを、
まるでくじびきするかのように選びますよね。

それにそもそも、
岩田さんとぼくって、
性格がぜんぜんちがうじゃないですか。
ものすごくちがうんですよ、ほんとにね。
だから、自分にない部分というのが
くっきり見えるわけです。
そうすると会話のなにが変わるのかというと、
自分のキャラクターを
相手にかさねる必要はないんだ、
と安心できるんですね。

変なことをいう人に
「ぼくも変です」と
変なことをいいあって笑うよりは
「それをこの箱に入れるとどうなりますかね」
という会話をしていることに近くなる。
やっぱり、
糸井さんがしゃべってくださるのは、
自分が絶対しない発想や、
自分が絶対に使わない視点なんです。

だから自分が予想もしないような球が
いつも来るんだけど……
でも、ちゃんと、こちらが
受けとめられる球を投げてくれるんですよ。
いちおうは、とれる球を投げているんですよね。
とれないことは一度もないんです。
だけど受けとったことのない球が来るので、
それがおもしろくてしょうがないんです。
ぼくはぼくで、お客さんが
ひとりだけいる高校生のときの
岩田さんとおなじで、
岩田さんと遊ぶときだから
しゃべれることというのがありまして……
「ぼくはこんなことをおぼえたんですけど」
というと、
おもしろがってくれるじゃないですか。

「自分の側からすると、
 それはこういうことですかね」
そんなことでしばらく会話のラリーがつづいて、
それによって最初に投げた球筋が
見えてくるみたいなことができて……

岩田さんもぼくも
もちろん他の人とは
ちがうラリーをしているわけだけど、
このふたりの組みあわせのなかでは、
ぼくの場合はいつも
「使える道具」を探しているような気がします。
「岩田さんに会ってから使えるようになった道具」
みたいなものが、ぼくにはけっこうあるんです。
わたしもたぶん、
糸井さんとのやりとりのなかで
生まれた表現や言葉を、
まるで自分で考えたようにして、
人を説得するのに
使ったりしているような気がします(笑)。
ぼくはコンピュータをやっている人と
会わないわけではないんだけど、
そういう人全般と岩田さんとは
なにがちがうんだろうと想像してみると……
やっぱりさっきもいいましたが、
岩田さんは「ただしい」ということについて
強く意識していないといいますか。
いいかげんですか?
ただしいことより、うれしいことというか。
はい、わたしは、ただしいことよりも、
人がよろこんでくれることが好きです。
ですよね!

……あのう、数学でいう
「エレガントな解答」というものと
「人がよろこぶもの」というのは、
多少、ズレがあるんですよね?
そうですね。

だけど自分の価値体系のなかには、
「まわりの人がよろこぶ」とか、
「まわりの人がしあわせそうな顔をする」
とかいうことが、すごい上位にあるんですよ。
そうなんですよねぇ。
「そのためなら、
 なんだってしちゃうよ!」
というところがあるんです。
うん。
「あなたは
 まちがっているかもしれない」と
ただしく指摘してくれる人がいたとしても、
ともだちにはなれない、
みたいなことですよね?
それは、その人が受けとったり
共感したりするように
伝えてないですもんね。

まちがっていることがわかっていたら、
その人が受けとって
理解して共感できるように
伝えないと意味がないわけで……。

まぁでも、
ただしいことをいう人が
いっぱいいまして、
それでいっぱい衝突するわけです。
おたがい善意だからタチが悪いんですよね。

だって善意の自分には
後ろめたいことがないんですから。
相手を認めることが
自分の価値基準の否定になる以上、
主張を曲げられなくなるんです。
でもそのとき
「なぜ相手は自分のメッセージを
 受けとらないんだろう」という気持ちは、
ただしいことをいう人たちにはないんですね。
「神の意志にそえ!」と
両方がいっているようなもんですよね。
はい、宗教がちがうのに。
それぞれ別の神様を頭に描いている。
だからただしいことをめぐって
論争しあっている状態って、
ある種の宗教戦争ですよね?
はい。
だからじつは
コミュニケーションが成立しているときは、
どちらかが相手の理解と共感を得るために、
どこかでじょうずに
妥協をしているはずなんですよ。
妥協というか、その場合は、
両方が通り抜けられるように
しているんでしょう?
はい。そうです。
岩田さんが
「コミュニケーションが
 成立しているとき」
のことをわかったというヒントは、
社長になってひとりずつと会ったときに
「人というのは、わかったつもりでいても
 こんなにいろんなことを考えているのか」
と思ったあたりにあるんじゃないですか?
そのときに、
そういう理解がずっと深くなりましたね。

それ以前にも
すこしわかっていたような気がします。
そうでなかったら、きっと
面談しようとは思いたたないわけですから。

あのとき面談をできたことには
きっかけがあって、一回会社が倒産すると、
「明日までに
 何々を作らないと会社がたいへんだ」
というのがなくなるんです。
つまりある程度、
モラトリアムができるんですよね。


「ほんとうにどうしようもなく
 時間に遅れるときは、三十分遅れそうなら、
 あと三十分で着きますといわずに、
 思いきって二時間遅れますっていうんだよ」

昔に糸井さんに教わって、
それはすごく「なるほどなぁ」と思ったから
今でも忘れないでいるんですけど……。
(笑)それ、ぼくも人から教わったんです。
会社のモラトリアムもそれとおんなじで、
会社がたいへんなときって
「一週間後までに
 これをしあげないとたいへん」
という自転車操業状態が
ずっとつづいているんです。

ところが一度頓挫して
まとまった時間をとると……
以前にできなかったことができるんです。

その「できなかったこと」が、
わたしにとっては、みんなとの対話でした。

そうしたらすごいたくさんの発見があって、
じつはこれはものすごい
優先度の高いことだとわかったんです。
だから後でまたいそがしくなっても、
それはずっとやめないできたんですよ。
ほんとうに大発見だったんですね。
ええ。


第9回おしまい。月曜日に、つづきます
2005-03-11-FRI