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社長に学べ!<おとなの勉強は、終わらない。>


第7回 修羅場を救ってくれたもの。



わたしは、お客さんに対しても、
うちに仕事をくれる別の会社に対しても、
相手が期待した以上のものを
いつも返してきたつもりなんです。

HAL研究所がたいへんになったときは、
そのリピーターだった人たちが
「ぼくらがなにか
 お手伝いできることがあったら、
 なんでもしますよ」といってくださって、
実は一社も
切ろうとしたところがなかったんです。

いまから考えると、
自分が困難だったときに、
わたしはそれに
ものすごく救われているんです。
それはすごいなぁ。すごいことですね。
ふつうはそういうことになると
「信用不安のある会社には
 仕事を頼んだらあかん」となるんですね。
だけどそうならなかった。

任天堂がいろいろなかたちで
助けてくれたのですが、
「信頼関係でやっている仕事は
 そのままおやりなさい」
といってもらえました。
そのときには、
岩田さんは、もう結婚をしていたんですか。
してました。
新婚でもないですけど、
下の子はまだちいさかったですね。
もちろん家族がいるから
つらいっていうところもあるけど、
いたことが逆に
よかったということもあったり……。
わたしは嫁にも感謝しています。
それに関して
一度も責められなかったですから。

世間体も決してよろしくないし、
すごいリスクを取っているわけなんですね。
「なんでそんなことをしなきゃいけないんだ」
といわれたって、
ぜんぜん不思議ではないんです。
それは、ほんとうに、ありがたかったですね。
そこでなにも責めない人がひとりいるだけで、
へっちゃらな顔をしている人が
ひとりいるだけで、ものすごくおおきいですね。
さっきもいいましたが、
わたしが「次もあいつとやりたい」と
いわせたいと思っていたまわりの人たちが、
誰も自分のまわりから
いなくならなかったし、むしろ全員が
「ぼくらができることはなんでもしますから」
といってくれたことに、
ものすごく救われています。

それがなければ
やれていないかもしれませんし
揺らいでいたでしょうから。
やはりさっきの話に戻りますが、
銀行さんたちが、
むちゃくちゃいうわけじゃないですか。
九割が支持してくれても、一割が
「岩田さんカンベンしてくださいよ、
 常識でしょう?」
という捨てゼリフを残して去っていったら、
急に目の前に寒風が見えてきますよね。
しかし当然なのですが、社内では
最初から全員がポジティブではないんです。
やっぱり修羅場だったんだなぁ。

あとできくから整理できる話でしょうけど、
そのときに
もしもその話をきいていたとしたら、
やっぱりぼくも、
「岩田さん、ぼくがなにをするのが
 いちばんうれしいですか?」
としかいえなかったと思います。

でものちのためとしては、
結果的に最高の教科書になったんですね。
「獄中で読める本はぜんぶ読んだ」
という話がよくあって
それを刑務所学校というように、
倒産学校という言葉さえあるんじゃないかと、
岩田さんのお話をきいていると思うんです。

つまり服役も倒産も、
どちらも前に進むしか道はないし、
逃げるという選択肢がないところにいる人の
話なんですけれども。
逃げるという選択肢は
いちばん最初にあったんだけど、
まずそれを捨てたんです。

「もし逃げたら自分は一生後悔する」
最終的に決断した理由は
それしかないと思います。
それを岩田さんの倫理と見るか、
岩田さんの美学と見るか……
いちがいに、理科系で論理で
つきつめるタイプの人はそう決めます、
というような決断ではないですから。
わたしは
「理科系の人はみんなこうだ」
とは思えないです。

むしろ、理科系的に期待値を計算して
なにがトクかと考えたら、
あの選択肢はないんです。ですから、
美学か倫理かわかりませんけど、
そういうものです。
つまり、HAL研究所というのは
ずっと自分が暮らしていた場所で、
仲間がいっぱいいるわけで、
そこはおおきかったんでしょうね、きっと。
一緒に汗をかいた仲間がいるのに、
どうして逃げられるかというのが
いちばんおおきい要素でした。
当時のHAL研究所で、
岩田さんは年齢的には
どのぐらいの場所にいたんですか。
開発でわたしより
年上の人は四人ぐらいかな?
それから営業や本社機能でいえば
もう年上の人ばかりですよ。
年上の人でリーダー役のできる人を
探るようなことはなかったのですか。
開発は自分がやっていましたし、
会社全体についても
「この会社のなにが強みか」
を考えたときには、
開発を軸に立てなおす以外に
ないだろうとすぐにわかりましたから。

それは頭の中で
十秒でわかるこたえといっても
いいかもしれません。
つまりその場合の開発というのは
「ゲーム」ということですよね?
そうです。
それは見えやすかったですね。
特に当時は、ゲームというものは
ちゃんと作れば打率の高いものだったんです。
そうかそうか、当時のほうが、
今よりヒットの出やすい環境があったんだ。
はい。
スーパーファミコンの全盛時代です。
わたしが社長になってから、
最初に『星のカービィ』を作るんです。
カービィ、おぼえています。
『ティンクルポポ』
というタイトルだったんですよね。
あのタイトルで
ゲームボーイのソフトとして
出す予定でしたが、
「もったいない」と
宮本茂さんがおっしゃって、
調整して、任天堂発売の
『星のカービィ』に変わるんですね。
じつはそのシーン、
ぼくは見てるんです。

宮本さんが
「『ティンクルポポ』っていうのが
 あるんですけどね……
 ちょっといじるだけで、ものすごく
 おもしろくなるやつがあるんです。
 あれ発売を中止して
 作りなおしていいですか?」

というところからはじまってるんですよね。

HAL研究所側は、
あれを作ってがんばろうとしてたんだけど。
まぁそうですね。

ただ、そのころのわたしはやはり、
ものの名前とか
売りかたとかいうことに関しては
ほんとに無頓着だったと思うんです。
そういうものは
「自分が考えることではない」
という認識でした。

かといってほかに
そういうことを考える誰かが
いたかというといないんです。
いないからああいうものに
なったんですけど。

自分の守備範囲として、
興味を持って世の中の流れを見て
分析して……
みたいなことをしていなかったんです。

ずっと前から、もう
次から次へあたらしいものを作っていって、
自転車操業のようにそれをまわさないと
会社がたちゆかなくなっていましたから。

ものの名前や売りかたについてはもう
「みんながそれでいいというなら
 それでいいんじゃないの?」
というぐらいの雑さでした。
もう、広告も出ていたんですよね、
『ティンクルポポ』は。
注文も取っていたんです。
注文数が二万六千本でした。

『星のカービィ』ゲームボーイ版は、
結局五百万本以上売れることになる……
二百倍売れることになったんです。
注文取っているものを
やめさせるというのは、
ものすごい乱暴なことだと思うんですよ。
それをさせちゃったんだ!
たしかそのときは、
会社のなかで大激論がありましたよ。
当たり前ですよね。
ええ。
だって営業の人からしたら
もう、メンツ丸潰れもいいところですから。
しかもその二万六千の予約が、
いまきくと少なそうな数字に
聞こえていますけど、
現場からするとでかいですよね。
でもそのおかげで
先の先に五百万本が待っていたんだ?
あの開発中止がなければ
今のカービィはないんですね。

カービィは今までのシリーズ
累計ぜんぶでいったら、
世界中で二千万本以上売れていますし、
カービィが登場するスマブラを含めたら、
累計三千万本を大きく超えていますから、
本当に大きな転機でしたね。
笑っちゃうよね、もう。

ぼくは宮本さんにそのことについて
きいたことがあるんですけど、
そんなことをするのは
しょっちゅうではないそうなんです。

宮本さんがそこまで
乱暴なことをするということは、
ほんとにゲームのおもしろさを
信じられるものだったんでしょう。


第7回おしまい。明日に、つづきます
2005-03-09-WED