POMPEII
「ポンペイに学べ」
素手で叡知を発掘する方法。

回 豊かさとはなんだろう?


「ローマ時代の遺跡発掘」で大発見の報道を読んだ方は、
ぜひ、「この対談」のアーカイブをお読みいただきたい。
そういう気持ちではじめた、アーカイブ再特集企画です。

「青柳正規さんを団長とする発掘隊は
 すでに今日のニュースを自信満々で予測していた!」

そのことが、「ほぼ日」の3年前の記事を読んでみると、
ありありと伝わってくるんです。
それと、日本人でありながら西洋史を専攻して、
ヨーロッパにも発信できるほどの「知」を生み出すには、
こんなふうな方法論を取ったのか……と、
なにかを学ぶことについて参考になる発言が、たくさん。

今日は、
「いいものは、それだけでは伝わらない」
という青柳さんの実感も含めて、
たっぷり、ポンペイのお話を、おとどけいたします。


「ものを学ぶ姿勢」について

青柳 シーザーという人は、
その時代に求められていた大変な事業を
実現させる方向で
社会システムをつくればいいんだ、
と信じていたんでしょうね。
そのためには、王様になって実現させて
そうすれば民衆もよろこぶし……と、
彼はその自信を持っていたと思います。
糸井 聞いてると、シーザーはかっこいいなあ。
やっぱ、『シーザー』って名前だけあるよ!
……そんなヤツぁ、
どうやって作られたんでしょう?
青柳 すごい社会混乱のなかで、
政治的決断をその都度要求されますよね。
そういうなかで
身につけていったんでしょうねえ。
だから彼のあたまのなかでは、
自分が王様になって、えらくなって
好き放題のことをやるぞっていうのは
やりたいことのうちの、
ごくわずかなことでしょうね。

本来の目的は、
ローマのような世界に
住んでいる人たちが、幸せになって
豊かな生活を送りたいということで。

それを実現するためには、
自分が王になるのが
いちばんいいだろうと。
糸井 そのシーザーの倫理って、
キリスト教の倫理ではないですよね。
青柳 そうではないですね、その時はまだ。
糸井 シーザーがそうやって願うのは、
なんでだったんでしょうねぇ……。
青柳 地中海世界は、
エジプト人も住んでいれば、
北アフリカには
ベドゥウィンみたいな人も住んでいますし、
いろいろな文化が接している
濃密な空間なんですよねえ、全体が。

濃密な空間で、
ギリギリの折衝をしたり
ギリギリの戦争を
したりしてきていますから。

われわれだと例えば
貧しい国があれば
食料を送ればいいやとか
言いますけれども、食料を送れば
一部の人たちが受けて、貧富の差が
拡大するおそれもあるわけです。
だから、善意が悪意になりうるわけです。
世界中に通じる善意なんてないんです。
それが国際社会ですよね。

そういった濃密な空間が、
地中海という地域には、
昔からあったわけで、
そのなかで、単純に、
「みんなで平和に暮らしましょうよ」
なんて言っても、
バカって言われますよね。

そうしたら、権力によって
自分の描く
社会の到来の実現を夢見る……。
そのためには権謀をつかってという。
そういうのが、個人のなかに
いちばん凝縮されているのが、
シーザーでしょうね。
糸井 かっこいいなぁ。
青柳 かっこいいですよ。
とんでもない色男。
きれいな
プロポーションだったらしいですし。
崩れた着方をして、ほとんどの女性が
コロッといったらしいですね。
糸井 そういうことは、
なんでわかるんですか?(笑)
青柳 (笑)ははは。
文献に書いてあるんです。
非常にシャープな感じの。
いま、アメリカのインテリ系で
かなりかっこいいと言われている
エリートたちがいますよね。

でも、シーザーは、
それよりもっとかっこよくて、
もっと優しさに満ちた感じがあって、
慈愛の目があって、それでいて、
非常に人を吸いつけるような魅力が、
あったと思いますねえ……。
糸井 (笑)それを語っている
青柳先生が、もうほれてますよ!
青柳 あははははは。
糸井 ぼくは最近、
「学ぼうと思えば犬のくそからでも学べる」
と思っているんですよ。
青柳 ハハハ。
それ、いいですねえ。
糸井 「学ぶって、いったいどういうことなのか」
と考えてまして……
それでいろいろな本を、この
「ほぼ日」から出しているんですけれども。

つまり、本と言うと
すごく大事な美術品のように
扱われがちだし、読みにくくても
無理して読むような先入観があるけど、
何かを伝えるとか、読むとか、
学ぶとかいうのは、
ほんとうにそういうものなのかなあ?
という疑問がありまして。

今の人が生きていくために
必要な道具を次々に出していく気持ちで
読みやすくて、
しかも大切なことが書かれていて、
読んだ途端に実際に使えるような本を、
作ってみたかったんですよ。
そういう本なら、自分でも読みたいんです。

もちろん、保存するための本ではなくて、
遊んだり、楽しんだり、
使ったりするための本だから、
買ったとたんに
読み捨てられても構わない、という。
青柳 それは、おもしろいですね。
糸井 「学ぶ」っていうのは、
「すでにある知識を得ること」じゃなくて、
「学ぶ方法を理解すること」だと思うんですよ。

やっぱり、どこの世界でも
どういう人材がいちばん欲しいかと言うと、
環境が変わっても
そのつどやっていけるヤツだし、
「こういう場所なら、
 こういうことを俺はしたい」
と、素手で何かを
つかみ取ることのできる人ですよね。

だから、教科書を読んで
何かの知識を得るというよりは、
いまおもしろい仕事を
実際にしている人の横で
その人のやっていることを
見たり聞いたりするほうが、
ものすごく、
「学ぶ」ことになると思うんです。

ぼくはこの本を、そんなようにして
作りたいと考えています。

青柳先生のそばで、多少のムダ話も含めて、
じっくりと会話をしているような本って、
あとあと何かのヒントになるんじゃないか、
とぼくは考えているんですよ。

素晴らしいアイデアなり業績なりを残すのは、
やはり人間ですから、それならいっそ、
現役で何かをしている人の
話し方の個性まで出てしまう本のほうが、
丁稚奉公に近い学び方をできると思うんです。
青柳 いいですねえ。
学び方を学ぶことについては、
エリザベス1世が
おもしろいことを言ってますよ。
彼女は、60歳を超えてから、
12番目か13番目の
外国語の勉強をはじめたんですよ。
糸井 うわ、すげえ。
青柳 すでに10何カ国語は
きちんと習得していたわけです。
だけどもうひとつをやりだした。
それでまわりの重臣たちが
「どうしてそんなにやれるんですか」
と尋ねたらしいんですが、彼女は
「わたしは自分で勉強してきて、
 2番目か3番目の
 外国語を身につけた時から
 外国語を学ぶ方法を会得しました。
 だから、今からやる言語に関しても、
 時間さえあれば、何の苦もなくできるのです」
と……。

学ぶ方法を知っている、というのは、
そういうことですよね?
糸井 まったくそうです。
結局、
昔の人が言っているように、
子どもに魚を与えるよりは、
釣り針と糸を渡すべきだ、
みたいなことですよ。

そのほうが、自分でいくらでも取って
食べれるようになるよと。

釣り針と糸のような道具こそが、
これからの時代に、
いちばん必要ですよね。

その釣り針と糸のようなものとして、
考える基盤みたいなものに、
この会話がなっていればいいなぁ、
と思うんです。

あとはそれぞれ、
誰か読んでくれる人がいるなら、
これをもとにしながら、
実地でリスクを負って、がんばれよと。
青柳 ハハハ。

そうですそうです。
ギリギリの現実で
必死になるということは
とても大事ですよね。

ぼくの高校の一年先輩の
井出さんという人は、
東大の野球部からプロ野球に入ったんです。
糸井 あ、ぼくの年齢で
野球を好きな人なら知ってるんですけど、
中日の井出コーチ(当時)ですよね?
青柳 そうです。
同じ年に東大に入学したら、
彼は才能を見込まれて
野球部から声をかかってました。
……ぼくも声がかかるかと思ったら、
全然かからないんですよ。
糸井 (笑)青柳先生、野球をやっていたんですか。
青柳 ……やってた(笑)。

それで、誘われないから
ひねくれて、山岳部に入ったんです。
糸井 わはははは。ひねくれたんだ(笑)。
青柳 その井出さんが、10年か20年前に
中日の選手をやめる時に、
つくづくと言っていたんです。
それが、おもしろかった。

「自分は、筋力や瞬発力では、
 まわりの選手にも劣らないことはわかった。
 でも自分がプロ野球で成功できなったのは、
 ほかのヤツらが、野球エリートとして、
 小学校くらいから全国大会とか県大会とかの
 修羅場ばかりくぐってきたからなんだろうなあ」

井出さんには、幼少の頃からの
野球の修羅場の体験は、なかったですから。
糸井 (笑)修羅場。大事ですね。
青柳 それこそ、プロになる人はみんな、
小学校の頃から、
お山の大将でやってるわけでしょう。
しかもだいたいが、
ギリギリの決勝戦をむかえたりして(笑)。
糸井 10歳くらいから、
カツカツでしょうね(笑)。
小さいときから一国一城のあるじなんだ。
青柳 「その経験があまりにもなかったから
 自分は成功しなかったんだ」
というのを、
井出さんは、つくづく言っていました。
本当かどうか知りませんが、
なるほどと思いましたね。
糸井 それ、リアリティーがありますよね。
「俺がやらなければだれがやる」
という経験を、
小学校のときからやっているかどうかは、
大きな差につながるでしょうから。
青柳 ですよねえ。
糸井 それはすごい経験ですよね。
その意味ではやっぱりこう、
給料を必ずもらえる
社会というのに対して
新しいデザインで
対抗するといいかもしれない。
青柳 失敗したら
給料を下げるんじゃなくて、
指を1本切るとか?(笑)
糸井 (笑)そりゃ、確かに
ギリギリのたたかいですけど。

まぁ、
とにかくリスクがあっての勝負だから、
リスクのない仕事をいくらやっても、
人の器は、育たないですよね?
青柳 はい。そう思います。


いいものは売れるのだろうか?

青柳 2001年のポンペイ展は、
ありがたいことに大盛況でしたが、
その数年前、1999年におこなった展覧会は、
入らなかったですよね。

1999年の時点では、
いいものを作りさえすればわかってもらえて、
評価してもらえるだろうとか、
口コミでどうにかなるだろうと思っていたので
媒体を色々と使わなかった結果が、
ああいうものになったのだと思います。

その時に、
いい商品が必ずしも売れない、
ということも、わかりました。
糸井 ぼくは今、ソフトって何?
というのにいちばん興味があるんです。
ソフト社会だとかこんなに言われてはいるけど、
ほんとにソフトが語られていることって、ない。
ざっくりとソフト会社を買いつけたとか言って
マーチャンダイジングみたいな
発想で話されてるけど、
ソフトってそんなにできるもんじゃないし
いいソフトってないし、あるとしても
それを伝えるお皿がないとどうしようもない。

みんなそこを
見くびりすぎているんじゃないか?
ぼくは最近ソフト欠乏時代のソフト社会という
視点でいろいろなものを見つめているんです。

あの1999年の展覧会にはソフトの現状の
典型的なものが出ていたと思いました。
ソフトがあるのに場所のキャスティングが
間違っているからお客さんに届かない、とか。
だけど、あのポンペイ展に来た人が
みんな満足していたのは事実でしたし……。

ぼくはあの展覧会がおもしろくなければ
「ほぼ日」で伝えるつもりもないのですが、
でも、ああいう体験ってはじめてでした。
遺跡に行ってその場に立つ感慨に似ていたし、
いろいろな楽しみ方ができました。
だからぼくは、これつくったひとたちは
ねらってやっているな、と思ったんです。
「ディズニーランドとかに近いような
 体全体で楽しむというあのコンセプトが
 もしひとに届いていなかったとしたら、
 どうすればいいんだろう?」
というときに、これからぼくたちが
考えるべきことが見えたと思うんです。

今は、ソフトが欠乏しているところで
「みんなにアンケートをとって」
「こうしたら絶対ひとが来る」
という風に考えてソフトをつくるような
やりかたからは変えていく時期だと思います。

だけど、あのポンペイ展のようなものが
その後も、
限られたお客さんの数で終わってしまうのなら
壮大なる実験失敗のままになると思うんだけど、
そうじゃないところがありうるなら、
ぼくは悪あがきしたいんだよね、と感じました。
で、実際に、人気が出ましたから。
青柳 ソフトなきソフト時代とおっしゃったのですが
ソフトというのは
「箱もの」ソフトなんですね。
テレビというハードの枠の中でマッチしている。
映画用に撮った景色をテレビにそのまま
景色だけで流しても、これはソフトではない。

展覧会もある意味でソフトなのですが、
ハードとしての美術館という場所の
限定のなかでソフトとして生きていくんです。
だからその限定をのりこえたものは
なかなか展覧会としては認められない。
期間にしても1か月2か月に区切ると
「終わっちゃうから」と行こうと思うけど、
6か月だとアウトオブスケールになってしまって、
やはり従来型のソフトではなくなってしまう。
糸井 惹かれなくなってしまうんですね。
ただ、前にも、おききしたんですけど、
会期を6か月にしたおかげで
コストをかけられたという
それはぼく、発明だと思ったんですよ。
青柳 そうなんですよ。
「しめたー!」
って思ったんですけど。
糸井 1か月の展覧会の6倍の費用は
かけられないんですよね。
青柳 あの時は
3億4000万円かけました。
糸井 たいした額ですね。
青柳 普通、どんなに凝った展覧会でも
3000万円がいいところです。
とんでもなく
入りそうな見込みがあるときに
8000万円くらいかける。
その4倍ということで、
その意味では
かなりのお金のかけかたですよね。
糸井 そこまでのところで
非常に斬新なアイデアもあって、
ある種の経営感覚もあって
スタートできたという
その意味では
ぼくも大拍手だったわけですよ。
そのへんのところを裸で出しちゃったほうが
「ほぼ日」の対談には
意味があると思っています。
その期間限定じゃないという目論見が
逆に悪い作用をしちゃった、
ということもあるのですが、
もっと大きい部分としてぼくが思うのは、
ポンペイ展の噂を、当時、
どこでもきかなかった点です。

テレビ局とタイアップした場合には
絶えず向こうから
飛びこんでくる情報になって、
例えば典型的な例では
彫刻の森美術館があって、
鎌倉の大仏みたいに
名物になっていますよね。
あれの後援を仮に新聞社がやったとしたら
どこかにたまに広告を出していたとしても
名物にはならなかったと思うんですよ。

そこの点がまずはテレビの掲示効果というか、
ここのところでまず第一歩、
朝日新聞とTBSという
立派で大きい主催者が
ついたおかげで、
逆に動きにくくなったのかな。
青柳 テレビの集客力はすごい、
と今回は感じたのですけど。
糸井 こういう展覧会をぽんと投げ出して
お客さんに楽しんでもらうためには、
と考えると、ふだん
古代ローマについて思っているひとも
おそらくそんなにはいないだろうし、
「火山でなくなった街だよね、イタリア?」
ポンペイには
そんなイメージしかないわけです。
「そんなところであのソフトをぽんと出して
 お客をひきつけられる要素ってなんだろう?」
と、ぼくは広告屋だから考えるわけです。

ぼくのホームページのなかには
いろいろなひとからいただいた
原稿を出す場所があるんですけど、
入り口から原稿につなぐところで
ぼくはいつも前口上を書いているんです。
それをうちでは隠語で「淀川」って呼んでて。
これ、何かというと、淀川長治さんなんです。
淀川さんの映画紹介のしかたは
たぶん日本独自のものだと思うんですけど、
「こんなところをわたしは楽しんだ」
「ここを見て欲しい」
どんな駄作でもほめる場所を探して
「こういう見方をするとぼくは楽しい」と。
ソフトとコンシューマーをつなぐ商人の役目を
映画の前に上手に嘘をつかずにやっているんです。

ぼくは淀川さんの紹介のしかたを見ていて、
「これのないものにはひとが来ないな」
と、小さい頃から思っていたんです。

それをうちでは「淀川」としてやっていて
「つまんなかったね」という紹介もあるんですよ。
そこでポンペイ展を紹介しようというときでも
「ポンペイのことなんか誰も考えてねえよ」
と言われているとしても、そんななかで誰かに
「あれ、おもしろいよ」とほめられたとたんに、
嘘をつかずにつながることができるんですよね。
メディアが純粋にいいところだけを
効率よく全部伝えようとすると、
うまく伝わらないんです。

新聞のやりかただと、
展覧会のいいところが8箇所あったとすると、
それを箇条書きにして8個全部出しますよね。
そのかたちをとっているかぎりは
「縁」ができないと思うんですよ。
テレビで紹介するかたちというのは
そうではなくて、誰かにその場所に行かせて
気配をそのまま伝えさせるんですよね。

ポンペイ展のようなイベントがあるときに
果たして新聞社の役割ってどうなのかなあ?
新聞には何の罪もない。主催してくれて
まったくいいことをしてくれるんですよね。
ただ、メディア特性の変化があるので、
「前の成功体験を追っかけていく」
というやりかたになると無理になるんです。
最初に青柳先生が朝日新聞と組んだときには
これはきっとうまくいくぞ、
という直感があったわけですよね。
そのへんはどのようなものだったのですか?
青柳 古代のひとが
使ったフライパンや鍋や彫刻だとか、
それをただ並べるというだけではなくて、
今回のポンペイ展のように復元した家のなかだとか
道路であるとかそういうところに並べると、
普通のひとたちにどういう使われかたをしたのか、
彼らがどういう楽しみ方をしたのかが
もっともっとわかるだろうと思いました。

日常生活の感覚で古代を理解する、
「ああ、わかった」という瞬間がありまして。
よく考えてみるとこれは2000年も前のことで
しかも日本とイタリアとは離れていますよね。
時空のひろがりを少しでも感じてくれたら、
きっとスリリングな影響を与えられる、
そうしたらたぶん口コミで広がって、
お客さんに入ってもらえるんじゃないか、
というのが、第一点で。
糸井 そうすると制作物までは
青柳先生の中でイメージがきちんとあって、
ただ「伝えるイメージ」は模索中のままで
スタートしたとは言えますね。
青柳 その辺はほとんどチェックをしてなくて、
朝日新聞もついてるし、TBSも
どうにかやってくれるだろうとか、
そういうことを期待していたものですから、
おあずけになってしまったんです。
糸井 誰もが震撼するようないい小説があっても
それが伝わるかと言えば伝わらないですよね。
後年発見されるとかいうのがあって、
南米文学ではすごい小説が出たと言われるときと
書かれた時期には、すごい開きがあったりする。
紹介者のパワーで伝播するというそこのところが
あの1999年の時には
うまく機能していなかったというのが……。
青柳 典型的ですね。
糸井 普通の企画は「箱もの」の
ところで終わるわけですか?
青柳 我々の悪いところかもしれないけど、
何をどういう順序で並べて、
ある程度までの説明を入れて、
と、そこまで準備ができたらあとは
「いいものだから、もう絶対入る!」
ということだけしか考えませんからね。
糸井 素晴らしいハンドボールの試合があっても
野球のようにはひとが来ないというか。
ぼくは、生意気になるんですけど、
「もしポンペイ展チームにぼくが参加してたら」
と、おせっかいだけど考えてたんですよ。
展覧会に行かなきゃわからなかったことがあって、
会場に立ったとき、当時のひとの動きを
今の自分と重ねて見えるような気がしたので、
「これは素晴らしい」と思ったの。

ぼくはコピーを考えるときには、
試作をいくつかつくるんですよ。その試作は
ちゃんとした文章になってなくていいんですけど、
ぼくがポンペイ展のコピーを書くなら
「ここに立つと、ローマまで
 出かけていったときよりも
 そのときのイメージが見えてくる」
そんなことをメモに書きつけるように思います。
展覧会場はそうやってできているんですけど、
「ポンペイ展」宣伝ポスターはそうではない。
「ミイラが見える」という見方になっている。
でもこれは方法論的には、ミロのヴィーナスを
呼んだときとおんなじ方法でできてるんです。
ひとには昔から当然にある種、
猟奇趣味のところを持っているから、
現物がそこにあればある程度のお客さんが来る、
あのポスターにはそんな想定があったと思う。
ただ実際にミイラを見ても猟奇趣味でもないし、
景色にあっちゃうんですね。

この展覧会でぼくが一番圧倒されたのは
当時の生活の仕組みがわかって
「え? 俺らちっとも進んでないじゃないか」
というこの驚きだから、ぼくの場合は
それをまたメモに書きつける。
今2000年も経っているけど、
果たしてあのときから進歩してるのか?
これがショックだったから。

もうひとつは自分の今の興味で、
「この道標のないような時代に生きている
 ときに、すごい道標が見つかったぞ」
と。これをちゃんとわかったら
大きな未来につながる道がある。

展示会の軸はこの3つだろうなと思いますが、
伝えるときに軸があらわにならなかったから、
テレビ局が取材に来たときにでも
「こんなことが再現されているんですね」
という言葉の枠に押しこめられちゃうような
仕組みになってしまっているんです。
そうなると取材に来たひとの言うことも
「こんなふうに生きてたんですね」
という距離の出た感想になってしまいます。
この「どう伝えるか」という点で
もう一度プロジェクトを組まなければ
いけなかったんだろうなあ、と思います。
ぼくがこうして青柳先生としゃべっているのは
そのプロジェクトの後追いというか
泥縄的なことをやっているんですけどね。

先生の解説をききながらぼくが会場を
まわったというのがあるんですけど、
今ぼくが出した3つの視点は、主催者側の
青柳先生たちの側には全部あったことですよね。
箇条書きにしてしまうとあっけないんですけど、
そうじゃないやりかたで伝えたのなら、
ひとびとはきっと興奮すると思うんですよ。
ビジネスマンを誘うという軸も、
旅行好きを誘うという軸もあったろうし、
学生たち、あるいは単に悩みを持ったような
ひとたちが来るという軸もあっただろうし。
「ポンペイ展」をいまからしゃべる途中での
たたき台にして話をしていきましょうね。
青柳 今糸井さんがおっしゃったような
3番目のことと合体してるんですけど、
ぼくは学生の頃からまず
「現代って何だろう?」
という命題があって。

ぼくが学生の頃には紛争があって、
その当時ぼくは山に登ってばかりでした。
そういうことをやっていたものですから、
ちまたの現代のことというよりは、
ひとつの定点観測になりうる定点は何だろう?
と思っていました。

人間の歴史を考えて大きく分けると、
先史の時代と古代とそれ以降しかないと
ぼくは思っているんですよ。
先史はもちろん文字も金属もほとんどない。
古代は文字を持っていて都市をつくり、
経済システムをつくり法律体系をつくっています。
現代と違うのはガスや電気や化石燃料の技術が
なかったというくらいなんですよ。
そういう前提のうえでの
完成形体は、ローマ帝国なんです。

中世のあと近代主義社会になって
現代になるんだけど、まだ完成形までは
行けてないと思うんですね。まだ先はある。
そこで、われわれの歴史から見ることのできる
ひとつのモデルというのが古代という時代であり、
古代というものの完成形体はローマではないか、、
ぼくはそう思ったんです。

それ以前にぼくは
個人的にルネサンスの時代の
美術なんて研究してみたかったんですけど、
時代が新しくなればなるほど
ひとりの人間の生きざまや生活など、
そのひとの持つ個としての特殊事情によって、
かなり左右されますよね。すると矮小化されて、
つまらないところまで立ち入ってしまいます。

それはどうも体質にあわないと思って、
それでローマをはじめたんですね。
糸井 完成形がローマだと思ったのは
研究しはじめてからですか?
青柳 研究しはじめてからです。
誰もが感じるんだろうけど、
ある予感というか
ぼんやりとした見通しは、
学者の場合には特に絶対必要なんですよ。

まだ勉強していないけど
ここを突っつけば
どうにかなるんじゃないかなあという勘が、
少しは当たったわけです。
糸井 そうすると古代ローマ時代が
人類史にとってある種の完成形なんですか。
こないだ青柳先生と話したときには
人類史上の天才という話になったんだけど、
これが、おもしろいんだ。
ショックをうけるくらいおもしろかった。
青柳 科学史の研究者たちがよくやるのですが、
人類史上の天才100人をトップから並べようと。
そうするとほとんどだいたい誰もが
アインシュタインを80番くらいに置きます。
もちろん日本人は残念ながらひとりもいない。
トップから20番目30番目くらいまでは、
ほとんど古代ギリシャの自然科学者や哲学者で、
アリストテレスなんかがばーっと入ってきて、
そのなかにローマ人は全然入らないんですよね。

ギリシャ人たちが活躍した時代は
紀元前600年代から紀元前200年くらいまでの
約400年ですけど、ただ、当時に
生活レベルが上がったかというと、
これはほとんど上がってないんです。
その当時からギリシャ人たちは
「まずいものしか食わない」って、
地中海世界でも有名なんですね(笑)。
生活レベルで言うと
その100人の天才リストに
名前を輩出していないローマ人というのは、
そのギリシャ人の発明したものを
徹底的にアプライしていくわけですね。
応用して利用しつくして
自分たちの生活水準をぐんぐんあげる。
この生活水準は
イギリスで産業革命が起こるまで
人類のどこも克服できなかったものなんですよ。
約17世紀くらい克服されないものを築いちゃう。

4〜5年くらい前から日本の教育が閉鎖状態と
言われて、そうすると教育研究者や文部省が
「創造性のある人間をつくらないとだめだ」
と言うけど、創造性って何かというと、
ギリシャ人のような天才をぐんぐん輩出したって
われわれの経済などが好転するかっていうと、
少なくとも歴史上の教訓を見るとそうではない。
糸井 それを知って、あの展覧会場に立ったらと
「豊かさ」がキーになっているとわかりました。
まずいものを食って天才を出した時代があって、
そのギリシャにあるものを追求したところで
何があるかというと、豊かさを求める歴史ですね。


豊かさとは、なんだろう?

青柳 現代には3タイプの金持ちがあると言われます。
ひとつは南米のブラジルやアルゼンチンのように、
お金さえあればやりたい放題にできるというもの。
2番目はイギリスの貴族の、
衰えたとは言え奥深い金持ちのありかた。
3番目は北イタリアの市民レベルでの豊かさで、
誰もが豊かになれて、豊かになったときには
そのよさをエンジョイできる生活と環境がある。
その点は南仏などよりもはるかに上なんです。

もちろんアメリカの金持ちはこの3つとは
また別ですけど、そのあたりを考えたときに、
例えばローマ時代の1世紀2世紀の頃は
やっぱり古代社会という違いはあっても、
ある豊かさの典型じゃないかと思いますね。
それは奴隷であれば違いますが、市民であれば
今の北イタリアの生活レベルに達しています。
食料が供給されるし生活補助もありますから、
そういう意味での豊かさはあったんですね。
糸井 何よりまず、ぼくらが毎日
うるおいのない生活をやっていまして(笑)、
今仕事をしているひとって
みんなそうじゃないかと思うんですけど、
うるおいを無理やりある時間にかけて、
うるおった気持ちになったら次の仕事に向かう、
そのくりかえしになっていますね。
見本になっているアメリカっていうのも
そうやってうるおいを生活から分断している。
そう毎日感じながら俺は
「ほんとは違うんだろうな」
と思ってるけど、それだけではどうしようもない。
で、あの展覧会に行ったら……。

どう言ったらいいんでしょう?
無駄なものの多さにびっくりさせられるんですよ。
「お前ら装飾しないと生きていけないのか!」と。
あれを見てそう感じるのはやっかみ半分ですけど、
思えばきっとあの時代って、お金のあるひとから
あんまりないひとまで、ほんとに装飾しないと
生きていけなかったんでしょうね。
青柳 そうですね。
もし今のモダンなデザインを持っていったら、
「何だこののっぺらぼうは」と言われますよ。
糸井 北イタリアの市民レベルの豊かさのなかに
ポンペイの当時には誰もがいたんだろうなあ。
「無駄がないと生きていく価値がない!」
きかれもしないのに毎日主張してるというか。
青柳 あの装飾はわれわれにとっては
うっとうしいくらいになのですけど、
おそらくヨーロッパのひとたちにとっては
そうじゃないんでしょうね。
糸井 温度高いですよね。
青柳 ほんとに濃密ですよね。
糸井 ぼくはバリ島が好きなんですけど、
あそこに住んでいるひとたちも
装飾しないと生きていけないですよね。
青柳 そうですね、芸術的に濃密ですね。
糸井 すごいですね。市民レベルっていう
言葉があっているかどうかわからないけど、
どんなに技術のない人でもカゴのひとつ位は
今すぐ編んでやる、みたいなの。
青柳 ブルーノ・タウト
(ドイツ建築家。1880〜1938年)
なんかも言っているのですけど、
濃密さとは逆にわれわれ日本人は戦前だったら、
例えばこの部屋空間で椅子もどけて絨毯もどけて、
そういう非常にラディカルな建築の構造や
無の空間がなければ、満足しなかったわけですよ。
ちょっとでも無駄なものがあったらはずせ、
という逆の装飾をしてたんですよね。
糸井 マイナスの装飾をしてたんですね。
青柳 マイナスの装飾、そう。かたや
どんな机の脚一本でも
猫の足の装飾をしないと気がすまない
ポンペイのひとたちがいるんです。
我々も逆の意味でのマイナスの装飾をもっていた。
それがないまぜになってきていて、
しかもおそらく日本は今、
循環文化から蓄積文化に転化していますよね。
循環文化は伊勢神宮に象徴されるように
台風で家が壊れたら、材木を集めて
もう一度同じものをつくる。
家の形式の発展はないけど、自然のなかで
いつまでも対応できる文化をもっていたんです。
ところが戦後に2LDKの住宅のようなものが
つくられはじめたので、いわゆるヨーロッパ型の
蓄積文化にすこしずつ転化しはじめています。

民族博物館の調査によると、家のなかに
どれだけのアイテムがあるのかというと、
日本の場合は2500点くらいあるんですよ。
ヨーロッパの住宅の装飾はその半分もいかない。
それ以前の本当の循環文化をやっていたときには
何でも消していくみたいなことをやっていて、
それが逆にいろんなものを洗練させていたのに、
そのマイナスの装飾をどう洗練させて
どう美的なものをつくるか、の方針がないまま
部屋にがさがさ放りこむようになったんです。
糸井 そうするとそこで消してしまったものは
「装飾を殺していく快」の法則というか、
美というかそこなんですね。残念ながら。
あの、青柳先生って何年生まれですか?
青柳 1944年です。
糸井 ぼくは1948年生まれの団塊の世代で、
青柳先生はちょっとだけ前ですけど、
このひとたちは知性で豊かさを求めたというか、
装飾を殺す快の法則をある程度知っていながらも
高度経済成長のなかで自分をつくっていったので、
「あるような気がするけど見ちゃいられない」
そんな風にやってきてしまった。
この余裕のなさのようなものが
ずうっと今の日本をつくっているんです。
ただ、心残りではあったものなので、
今この年代のひとたちは、旅をすることや
歴史を学ぶことでそれを無理やり買いつけている。
これはまあ俺らっていうのは
つまらない育ちかたをしたなあ、と思います。
つまらないけどほかに選択しようがなかった。
今までぼくたちが見られるのは、
アメリカしかなかったんですよね。
青柳 そうですね、残念ながら。
糸井 ええ、残念ながら。
そんなときにポンペイ展を見せられたら、
「あ、違うな、アメリカも探してるだけだ。
 結局あいつらも買いつけてるだけじゃないか」
と思います。それに今こんなに不況で
価値観がこれだけ解体してしまったので、
買いつけでないものを育てることがやれるぞ、
と感じて、ちょっと愉快な気持ちになりますね。
青柳 そうですね。
買いつけ品ということで言うと、
戦前は「舶来品」という名で入ってくるという
フィルターがあったわけですね。
そこでかなりの上流階級や三井三菱などが
わざわざ向こうから何かを買うというときには、
向こうでいちばんいいものを取ってきてるんです。
だから日本で舶来品とは「いいもの」と同義語で。
戦後になると舶来品へのイメージは残りながらも
日常的にアメリカのものがどんどん入ってきて、
買いつけのシステムがごちゃごちゃになってきた。

フィルターさえもなくなって、そのうえに
金銭的にも豊かさに転換していくときだったから、
たまたま買いつけることができたんでしょうね。
その途中でどっかに国家的にフィルターを
つくるというのは誰も提唱してこなかった。
糸井 ぼくらの世代って自分の不得手なところに
もっとコンプレックスを持っていたほうが
おそらくよかったのかもしれないですね。
ぼくらは例えばビートルズの世代なんです。
ビートルズは好きなんだけど、その一方で
あんなに長いことやってるクラシックだとか
歌舞伎だとか落語だとか伝統芸術的な、
そういう「まだ残っているもの」への驚きを
持っているべきだったんじゃないかなあ。

ぼくが自分について
ちょっとよかったと思うのは、
そのへんに
軽いコンプレックスがあったことです。

だからぼくは、自分の好きなものを
自分の自由のために求めていたんです。
「まだそういうひとがいる」
というようなものを全部認めちゃって。
さっきので言えばぼくは、「貝の法則」を
手にいれたいひとの人口分布みたいなのを、
いつも図面に描いて生きてきたようなものです。
下手すると風俗営業を特集してる
男性週刊誌みたいなものですね。
「この店でこういうサービスがあるぞ!」
とわいわい騒いでるそういう人間をつかまえる
何らかの価値や快楽原則がそこにあるわけだから、
もうつぶすだのつぶさないだのではなくて、
「ある」を前提にしようと思ったんです。
だから、積極的に賛成ではないけど
つぶさないという立場にいたかったんです。

今で言うとコギャルが山姥っていうくらいに
めちゃくちゃな格好してるけど、でもあれ、
直ろうが直るまいが彼女にとっては気持ちいい。
だから責めるつもりはないんです、ぼくは。
国立演芸場に行くようなひとがあれだけ
もういるんだから、守っていくんじゃなくて、
これはこれで「ある」ことを認めようと。
一番多いのが何なのかをぼくは知りませんよ。
それは小室哲哉の音楽かもしれないけど、
残っているものの数をしっかりと見ていかないと。
風俗ギャルも認めるし山姥もいるし、
クラシックのちっちゃなコンサートも、
もうお金のなくなっちゃったジャズマンが
ブルーノートで演奏することも、全部認める。
なぜなら、そこにはお客がいるんだから。
これを今言えるかどうかが、次の時代を
しゃべるときの鍵になるんじゃないかなぁ。

(ダイジェスト版特別企画は、明日につづきます)


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2004-10-19-TUE

POMPEII
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