旅人にとっての北極星がそうであるように、
ピエール・バルーその人自身が、
若きアーティストにとって、
ひとつの「道しるべ」だったのではないか。
短いインタビューをまとめ終えた今、
そんなふうに思います。
詩人、歌手、俳優、映像作家、
そして欧州最古のインディーズ・レーベル、
「サラヴァ」の主宰者。
在りし日のピエール・バルーさんのお話を、
ここに、お届けいたします。
ご一緒くださったのは、妻のアツコさん。
インタビューから約2ヶ月後の昨年暮れ、
ピエールさんは、急逝されました。
わけへだてなく、誰にも開かれていて、
何よりあたたかかったお人柄が、
百分の一でも、伝わったらいいのですが。
担当は、ほぼ日の奥野です。

プロフィール

第4回 自由でいたいから。

──
サラヴァの「50年」という月日は、
人の半生にも等しい長さだと思いますが、
ピエールさんは、必ずしも
「儲けよう」だけで続けてきたわけでは、
ないと思うんです。

若いアーティストたちを、
何人も自宅に住まわせていたという話も、
つとに有名ですし。
ピエール
倒産の危機だって、何度もあった。
──
これほど続くとは思ってましたか?
ピエール
最初は、ブリジット・フォンテーヌと
ジャック・イジュラン、
そのふたりのアーティストの才能が
素晴らしかったので、
「2枚ずつ、レコードをつくろうか」
と言ってスタートしたんです。

すると、そのうちに、次々と、
とんでもない才能を持った変人たちが、
集まって来ちゃって‥‥。
──
変人?(笑)
ピエール
やめることが、できなくなりました。
──
なぜ、集まって来たと思いますか?
アツコ
類は友を呼ぶ‥‥と言ったらいいのか、
うわさを聞きつけてくるんです(笑)。
ピエール
それに、わたしたちは、
出会いに対していつもオープンでした。

若いころに、わたしは、
ヒッチハイクで放浪の旅に出たんです。
ノルウェーやデンマークなど、
スカンディナヴィアを、まわりました。
──
それは、何か目的があって?
ピエール
ただ‥‥きれいな女性に会いに(笑)。
──
つまり(笑)、とくに無目的で。
アツコ
そう、きれいな女性以外にはね(笑)。
ピエール
北欧への憧れというのがあったんです。

昔、ジャック・ロンドンという
アラスカの自然を
たった一人で旅を続ける小説家がいて、
オオカミとの出会いだとか、
犬ぞりの話だとか、
少年のころに読んで憧れていたんです。
──
『白い牙』だとか『火を熾す』の。
ピエール
ただ、アラスカまではとても行けない。

だから、せめて、ヨーロッパの最北へ、
たどり着きたいと思ったんです。
──
放浪の日々で培ったオープンな態度と、
このピエールさんのお人柄、
そしてサラヴァの哲学に魅力を感じて、
みんな集まってきたんでしょうね。
ピエール
ブリジット・フォンテーヌの
1枚めのレコードをつくったときには、
ほとんどのラジオ局には
取り合ってももらえなかったんだけど、
ひとにぎりの人たちが、
心強い味方になってくれました。

彼らが「これはおもしろい音楽だ」と、
ラジオで放送してくれたんです。
アツコ
そういう口コミも、静かに広まって。
──
伝説的に語られていることですが、
夜から朝方まで一晩中続くライブなども、
やってらっしゃったそうですね。
ピエール
結局、レコード会社の力がないから、
テレビやラジオに出してもらう、という
通常のプロモーションは、できない。

そこで、イベントだとかライブなんかを、
いっぱいやったんですが
8時間くらい続く「サラヴァの夕べ」も、
定期的に開催していました。
アツコ
もちろんプロもパフォーマンスするけど、
飛び入り歓迎のオープンマイクで、
長いから出演者もごはん食べに行ったり、
演者が誰もいなくなったら、
しかたない、レコードかけとくか、とか。
──
ものすごい自由(笑)。
アツコ
そういう感じだったから、
「わたしは、その場にいたことがある」
「わたしは、あのライブを知っている」
というのが、
ひとつのステータスになったんです。
──
そのようなライブは、
ほとんど「採算度外視」でやっていたと
何かで読みましたが、
なぜ、そんなことができたんでしょうか。
アツコ
それは、そのときまでに、
いくつかヒットした曲が生まれていて、
その出版権を、
すべて「サラヴァ」が持っていたから。
──
ああ、なるほど。
ピエール
ただ、わたしは、サラヴァから、
一銭もお給料をもらったことがありません。

過去のヒット曲から入ってきたお金は、
すべて、
新しいクリエイションのために使いました。
──
レコード会社なんかを運営していたら、
大儲けしたい、
大儲けできるかもって思いそうですが、
そういうふうには、
ピエールさんは思わなかったんですか。
ピエール
そうですね、わたしの興味の行く先が、
お金や成功ではなく、
おもしろいものをつくることや、
素晴らしい才能との出会い、
人に楽しんでもらうこと‥‥のほうに、
向いていたからだと思います。

そっちのほうに、
どうしても興味が向いてしまうんです。
アツコ
それは、彼の時代のアーティストには、
わりと共通した意識だと思います。

とにかくおもしろいことをやりたい、
人に楽しいでもらいたい、
そうすれば、
きっと、お金なんかついてくるよと。
ピエール
実際それで、ついてきた時代だったしね。
──
ピエールさんにとっては、
お金は「目的」じゃなく「手段」だった。
ピエール
やっぱり、自由でいたいからね。

人を縛るものっていろいろありますけど、
「お金」も、そのひとつでしょう?
アツコ
今月なんとしても稼がないと‥‥とか。
──
ただ一方で、先に成功があったからこそ、
お金が入ってきて、やっていけたと。
アツコ
うん、それは本当にね、そのとおり。

だから彼は、自分のこと、
ものすごく恵まれてるって言います。
──
そうですか。
アツコ
もしも、過去のヒット曲がなかったら、
きっと彼は今ごろ、
ホームレスのおじさんだと思いますよ。
──
なるほど。
アツコ
もちろんね、
生きるためにお金は必要なんですけど、
でも、なるべく、
お金にとらわれない人生を、送りたい。

そういう願望が、
彼には、強く、あったんだと思います。
<つづきます>

2017-03-25-SAT

ピエール・バルー監督による
ドキュメンタリー、再発。

サラヴァ 「時空を越えた散歩、または出会い」
ピエール・バルーとブラジル音楽1969~2003

1969年、ピエール・バルーさんが
ブラジルのリオ・デ・ジャネイロで撮影した
ドキュメンタリー映像が
追悼の意味を込めて、再び発売されました。
バーデン・パウエルをはじめ
当時のリオのミュージシャンたちとの交流や、
フェスティバルのようす、サンバの踊り、
50年前のブラジルの、黄色みがかった陽射し。
この古い映像の中で、
ピエールさんとリオのミュージシャンたちは、
ひっきりなしに歌を歌っています。
ギター1本とリズムを刻める何かさえあれば、
どんな場所でも、そこに居合わせた誰とでも。
音楽って、こうして、
ひとびとの間にあるものなんだということが、
伝わってくるロードムービーです。

ピエール・バルーさん

音楽家・作詞家・映像作家・俳優・プロデューサー。
欧州最古のインディーズ・レーベル「サラヴァ」主宰。
1966年、
クロード・ルルーシュ監督の映画『男と女』に出演。
「ダバダバダ~」のスキャットで知られる
フランシス・レイ作曲の主題歌で作詞と歌も担当。
同映画で、カンヌ国際映画祭グランプリ受賞。
さらには
米国アカデミー賞やゴールデン・グローブ賞はじめ、
世界各国で「41」もの映画賞を受賞。
サラヴァでの活動を軸に、
音楽や映画、出版の分野で多くの作品を生み出す。
ピエールさんに見込まれて、
パリの自宅に住まわせてもらったアーティスト、多数。
レ・ロマネスクのおふたりも
パリの下積み時代に、お世話になっていたとか。
2016年、東京で「サラヴァ」50周年記念展を開催。
2016年12月28日、パリにて急逝。
ピエールさんは、さいごまで、
つまり、倒れ救急車で搬送されながらも、
歌を、歌っていたそうです。

今回のインタビューに同席くださったのは、
奥さまのアツコ・バルーさん。
フランス留学の経験があったことなどから
日本ではたらいているときに、
来日中のピエールさんと知り合ったそうです。
今回のインタビューでは通訳をお願いしつつ、
アツコさんにも、たくさんお話していただきました。