その31 フイルム、デジタル、スマートフォン。その31 フイルム、デジタル、スマートフォン。

20160909 14:33 Terelj Mongolia
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実はここのところ、PCを開く機会が
以前に比べて、とても少なくなりました。
もちろんこうやって文章を書いたり、
写真のセレクトや現像作業では、
かなりじっくりと向き合うこともあるのですが、
日々続けている「今日の空」などは
“iphone”ひとつあれば更新することが出来ます。
スマートフォンは持ち歩いても、
写真を始めてからずっと毎日のように
持ち歩いていたカメラを
持って出かけない日が増えています。

そんな状況を、ぼくは、
「これでいいのかなあ?」と、
どこかで感じ続けていました。
「もしかしたら、大切な何かをなくしているのかも?」
そんな風に感じている人は
もしかしたらぼくのほかにもいるかもしれません。

以前、パソコンがぼくたちの日常生活の中で
欠かせないもののひとつになって行き始めたとき、
意識的にPCを開かない時間を作りました。
ですから今回もいっそのこと
“iPhone”をやめて“ガラケー”に戻し、
“デジタルカメラ”を横に置いて、
すべての撮影を“フイルムカメラ”にしたら?
‥‥などと、本気で考えたりもしました。

もちろん、そんなやり方もあるとは思うのです。
でも、それはそれで
ちょっと違うような気がしている中で、
デジタルカメラ「FUJIFILM X-Pro2」の仕事をし、
ぼく自身が初めて納得できるプリントが出来ました。
デジタルカメラではできないと思っていた表現が
できるようになったわけです。
そんなタイミングで、ぼくはやっと、
デジタルとフイルムの両方を受け入れてみよう、
と考えられるようになりました。

ただひとつだけ、その時にそれぞれの方法を
しっかりと使い分けること、その使い方を、
まずは大切にしたいと考えています。
先日、これは写真ではありませんが、
短い文章では伝えられないはずの大切なことを、
ついつい、LINEを使って送ってしまい、
大切な友人に迷惑をかけてしまいました。
同じネットでも、メールでちゃんと書くことと、
ラインで数行で伝えることは別です。
このような失敗はおそらく、
写真の世界でも、同じように起こりえます。
カメラとスマートフォンの使い分けですね。

日常の中で写真を撮るには“iPhone”でいい。
けれども「被写体と向き合って写真を撮る」であるとか、
“写真”=“プリント”といったように、
変わらずにぼくの中にある“写真”というものを
考えたときには、
まだまだ、フイルムを使用したアナログの世界に
大きなアドバンテージがあると思っています。
そんな時は、それなりのやり方で
撮影をしていこうと考えています。

アダンの実を、大好きな田中一村風に。

先日、これまでも幾度となく撮影を繰り返してきた
奄美大島に、久しぶりに行ってきました。
奄美には、アダンをはじめとした
独特の植物がたくさんあります。
それをデジタルカメラで撮ってはみたのですが、
なんとも、うまく写ってくれません。
それをプリントしてみても、
プリントというよりも“出力”という感じ。
だったら、いっそのこと次回は、
久しぶりに、このような大型カメラを持って、
しっかりと撮影してみようと考えています。

通称「Baby Deardorff」と呼ばれる、ディアドルフの4x5判カメラに、ドイツ製のオールドレンズ「Dagorダゴール」を付けて。

もちろん、これは大げさな例えですが、
これぐらいコントラストがある方が、
むしろ“今”ならではのやり方なのかもしれません。
スマートフォンの登場で、
誰もが簡単に写真が撮れる時代だからこそ、
「写真を撮る」という行為そのものが、
より大切な日常のひとつになったのかもしれません。

つい先日まで誰も見向くことがなかった“大型カメラ”は
いま、世界的に人気が出て、中古市場が高騰しています。
そして「フイルムがなくなるかも」という時代に、
ヨーロッパでは新しいフイルムメーカーが出来たり、
新しい印画紙が発売されたりしています。
その中のいくつかを試してみましたが、
中には、今まで使用していたものよりも
“いいもの”がたくさんあるのですから不思議ですよね。
先日フランスでは
「世界で一番小さなフイルムメーカー」と銘打って、
なんと“和紙”をベースとしたフイルムが発売されました。
使ってみるのがとても楽しみです。

考えてみたら、長い写真の歴史を振り返ってみても、
まず最初に「写った」というところから始まって、
やがて、ガラス板に乳剤を塗って撮影する時代が訪れ、
そこから一気に、写真というものが世界に拡がって、
今でもかろうじて販売されている“フイルム”が発売され、
一気に、写真がぼくたちの生活に
欠かせないものとなっていきました。
そんな“フイルム”も、最初はモノクロでしたが、
カラーフイルムでまたひとつの大きな変革期を迎え、
今度は、デジタルカメラの登場で、
“写真”が存在する場所が大きく変化しています。

そうなのです。
このように、いつの日も何かがなくなって、
そして、何かが生まれてきたのです。
今、多くの愛好家がいる「Instagram」にしても、
撮影してすぐにアップロード出来て、
しかも、瞬時に世界中の人々が、
その写真を見ることが出来る。
今ではあっという間に
当たり前のこととなってしまいましたが、
改めて考えてみると、つくづくすごいことですよね。
そしてそれは、きっと“写真”という世界にとっても
本当に面白い時代になってきたと
いうことなのかもしれません。

その中で、だからこそ使い分けが大切だと思うし、
しっかりと使い分けることが出来れば、
写真というものが
もっともっと大切なものになっていくのでは
ないでしょうか。

前回お話しした「15年目の今日の空」にしても
“日常の光の記録”として
毎日の空を見上げてきたわけですが、
それを毎日続けてきたからこそ、
“日常の光”に対して敏感になっているぼくがいます。
これは、写真家であるぼくにとっては
デッサンのようでもあり、
とても大切な写真行為のひとつです。
そして、それらを15年間公開し続けてきたことで、
そんな“日常の光”は、
それぞれの場所で、
それぞれの人によって、
観てくれた人々の“日常の光”への、
小さな入り口になってくれたのでは。

“写真”というのは、
“ひとつのドア”のようなもので、
そこから、いろいろな世界に通じることが出来るので、
不思議なものだと思います。
そして、それらの“ドア”の先は、
もしかしたら、実はすべて
つながっているのかもしれませんね。

もしも今、自身で撮られている写真に対して、
小さくても、大きくても、
少しでも不自然さを感じた時には、
たとえばカメラを変えてみるといいですよ。
こんなにも選択心が多い時代だからこそ、
いろいろと試してみて欲しいと思っています。
きっと何かが変わるはずです。

20160925 17:06 Kamakura Kanagawa
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