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第23回 目に見える光と、目に見えない光。


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六月になりました。
先月、五月は、
五月晴れという言葉を忘れてしまいそうなほどに、
晴れの少ない五月でしたが、
時折晴れ間がのぞくと、
まだまだ新緑が眩しい季節が続いています。

今回は、この「眩しい」ということについてお話しします。

おそらく皆さんも、この一枚目の写真のように
美しい新緑の下で、そのキラキラとした眩しい光を、
とても気持ちよく感じたことがあると思います。

春から夏にかけての季節ならではのキラキラした光に、
葉っぱも、いつも以上にその光に対して
活発に光合成を繰り返しているのでしょう。

もちろん「眩しい」中にもいろいろあると思うのですが、
ぼくはそんな瞬間の、ちょっとだけあたたかい
目にやさしい「眩しい!」瞬間が大好きです。

しかし、いざカメラを構えて、
そんな木漏れ日の瞬間を写してみても、
簡単には、その感じはなかなかうまく写りません。
そしてそれは、どうやら光の種類に
原因があるようなのです。

普通は、光と言ったら、種別化することはしませんが、
今までも何度か、この連載の中でも、
光には、様々な色があったりと、
光は決してひとつではない、
というような話をしてきましたよね。
今回は、それをもう少し具体的にお話しします。

最新のカメラでは写らない光もある。

昔から光の正体は『波』か『粒子』か? と
議論されていたのですが、
今では両方の性質を持つと考えられています。
例えば、簡単に音を“高音”“中音”“低音”と
分けるように、
光も“紫外線光域”“可視光域”“赤外線光域”と
分けることが出来ます。
音で言うと、一般的にぼくたちが会話をしたり、
聞いている音の中心は、“中音”に位置します。
それと同じように、普段ぼくたちが目にしている
光景の多くは
“可視光域”と呼ばれている
中間の光の中で成立しています。

ここで問題なのは、音にしても、
光にしても「波動」だとすると、
そのひとつの波の「幅」は、
同じではないということです。
そして、そのことが、こと写真においては
“写る”“写らない”に大きく関係しているのです。

音の場合は、“高音”は早く、“低音”は遅い。
そして光の場合も、“紫外線光域”は早く、
“赤外線光域”は遅いのです。
このように、速度の違う光をとらえて、
アナログにおいてはフイルム、
デジタルにおいてはCCDといった、
平面的な感光材で、光を感じて、
それを映像化するのが、写真術なわけですから、
当然、そこには技術的にも、様々な工夫がなされています。
もちろん昔は、それこそ“写る”ということだけでも
すごいことだったのでしょうが、
今となっては、それもどこかで
当たり前のことになっています。
写真は、技術の進歩によって、
「よく写る」ようになっています。

ただし、それはあくまでも
“可視光域”の中での話であって、
それ以外の光域に関しては逆です。
技術的に進歩してしまったことで、
(完全な計測が出来るようになったことで)
レンズで、あるいはカメラ内部で、
その光を整理(いらないものとして処理)しているので、
可視光域以外の光域に関しては、
むしろ、写りにくくなってしまったのです。

“いい写真”に写っているものは何?

では、そうやって整理されてしまった光というのは、
写真にとってほんとうに「いらない光」なんでしょうか。
確かに、ぼくたちの目に見えていない
光の光域ではあるのですが、
人間の機能というのは、とても優れていて、
具体的に、“見える”以外に、
感覚的に、“感じる”ことが出来るのです。
だからこそ、光を見て
温かいであるとか、冷たいであるとかを、
ぼくたちは感じることが出来るのです。
そして、こと写真においては、皮肉なことに、
いわゆる“いい写真”と呼ばれるものの多くは、
そういった感覚的な部分が写っている写真だったりします。
もちろんそんなことは、まるで関係のない
“いい写真”だって、たくさんあるのですが、
特に今回のように、光そのものに対して、
きれいだなぁー、気持ちいいなぁー、と思って、
それを写したいと思った場合は、
そのあたりを、少し意識しながら写してみて下さい。

「意識するって、どうやって?!」

ハイ、たしかに、むずかしく思えるかもしれませんが、
「眩しいなぁ」でも「きれいだなぁ」でも、
まずは、思ったことをことばにして、
写したいことが、なんなのかを思いながら、
シャッターを押してみてください。
たとえそこに、具体的なかたちとして
写っていなかったとしても、
不思議なことに、少なくとも撮影者が、
撮影時に、“写したい”と思ったことは、
(その気持ちにうそがなかった場合は)
そのことに対して、
少しだけ強く意識しながら、写してみることで、
何となくその“気分”が、自然と写っていくのです。
しかし、そのことを怠ると、
今度は、いきなり写らなくなってしまいます。
これもまた写真の不思議な魅力のひとつなのです。

ぼくは、何としてもより強い印象を持って
その「眩しさ」を写してみたくて、
時には、様々な方法で、光と向かい合っています。
中でも「湿板写真」という古典技法は、
これも偶然ではあるのですが、
いわゆるローテクなことも手伝って
目に見えない光の中でも
特に速度の速い“紫外線光域”を中心とした
世界を写し出します。
だから結果として、写し出された写真は、
こと光に関しては、その映像としての具体性よりも
むしろその“印象”が強く写ります。


Digital Camera
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Wet Collodion Glass Process
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もしもあなたが、今まで光に対して
“何となく”写真を撮っていた場合は、
目の前にある光の中に、
“目に見える光”と“目に見えない光”の
両方があることを、
何となくで構わないので、
そんなことがあるのかな、と思って
光を見てみてください。
すると、割と簡単にその存在に気付くはずです。
そして、その存在に気が付いたときは、
そのことを、意識しながら、
写真を撮ってみて下さい。
そうすることで、面白いように、
そこには、あなたが感じていた、
温かい光が写るはずです。
それでも、うまく写らなかったときは、
少しずつ、アングルを変えたり、
方向を変えたりしながら、
何度も写してみてください。
とにかく“見えない光”であっても、
やり方次第で、必ず写ります。



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次回は
「写真は、決して止まっていない」
というお話しをします。お楽しみに。

2006-06-02-FRI
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