超訳ニーチェ。
(「コンビニ哲学発売中」の特別篇)

第1回 悪循環。


お足を運んでいただき、感激至極。
はじめましての人は、はじめまして。
あいかわらずの「ほぼ日」木村でございます。
わたくし、動物占いで「こじか」なだけではなくて、
昆虫占いでは「バッタ」であることが発覚いたしまして。

「こじか」かい! 「こ」って何だよ!
とゆうところに、今度はバッタかよおおおお!!
ぴょんぴょん跳ねてるだけじゃねえか。
・・・あ、それ、俺だ。

でもさあ、「タイガー」とか「ファイヤー」とか、
なんかそーゆー、派手な占い結果が、欲しくない?

ま、そんな、静かな秋の夕暮れでございました。


       (一服)


紙面を豊かに無駄にしながらの、本題です。

<前口上その1>

ひとりでしみじみと雑誌の取材ものを読んでいると、
みなさま。なんとなく、思うことは、ござんせんか?
座談会やインタビューを読んでいるときに、
「またこの顔ぶれかよ」って、思いませんか?
ぼくは、思います。

取材をする側にいる人たちは、感じませんか?
「他紙に出てるし、もう既にいろいろ語ってるけど、
 また、あの人に取材をお願いせざるをえないかなあ」
こうやって、感じたことがありませんか?
ぼくは、感じたことがあります。

おんなじ時代にいて、おもしろいことを考えていて、
説得力のあるひとって、限られていますでしょう?
だから、みんなが、限られた「話せる人」に
話を聞きに群がってくる。

→話せる人は、話すことに疲れてしまう。

→話すことに時間がとられて、
 アウトプットのみの生活になっちゃう。

と、まあ、悪循環に陥りそうでしょう?
このループを、ちょいと覚えておいてくださいませ。


<前口上その2>

テレビを見ている時に、思いませんか?
ある人の生涯をふりかえる番組を見ていると、
その生涯の中のほんのひとコマを使って
「独裁してしまうと恨まれる」
「がんばれば金持ちになれる」
「棟方志功は背骨がまがる」とゆうような、
そんな、教訓や結論だけが放送されてるじゃん。
・・・で。そこで、
「でも、この人の生涯の細部こそがみたいのよ」
と、思ったことはありませんか?
ぼくは、あります。

髪は差異部に宿る、あ、いや、
神は細部に宿る、ともうしますが、
いろいろなものごとの「細部」を見る機会が、
社会に出たり忙しくしていると、なくなるでしょ。
文字情報でいうのなら、本を、深く、
血肉になるほどに読みこめる時間がない。
たぶん、テレビを作るひとも、
ほんとに深く深く調べているすごい人は、
ごくわずかじゃないかなあ?
だから、コメントにどっかの教授を使ったりして、
便利な「調べたぞ」という権威づけをする。

でも、深い豊かな味わいのようなものに、
みんなが飢えているんじゃないかと思うんです。
忙しさで酸欠になりそうな循環のあるところでも、
深く、何かを、おもしろがれないだろーか?
このループも、ま、ふたつめで覚えといてねん。


<ざざざん。じゃ、どうしよう>

この擬音には、意味はあるまい。

前に言ったふたつのループじゃないものを、
ぼくは、短期集中のこのコーナーを使って、
ま、仮に、試してみたいと思います。

どうしたいかとゆうと。

たとえば、今までだったら、誰かの本を読んで、
その作者に関する論文や評論を書くには、
「作者の独創性」
「ほかの研究者の書いた、
 その作者への解釈の独創性」
を厳密に意識した上で、それとは違うような
「わたくしのオリジナリティ」を出して、
その着眼点の面白さを書いてゆくのが一般的ですよね。
だから、ほんの少しのことを述べるために、
長い時間が必要になってきます。

それは、とてもいいことだと思うし、
尊敬すべき研究者も、いるんだけど、
でも、その前に、読んでここがすごい!
もう、フレーズ反復するしかない。
みたいなことって、あるじゃないですか。

それって、誰のオリジナリティであるかも超えた、
よくわからない熱であるかもしれない。
そういうおもしろがりかたを、してみよーかと。

「超訳」というものがありますよね?
翻訳したものを、原文の通りではないかもしれないけど、
こう読んだほうが味わえる、という訳しかたのことです。

これは翻訳者にとっては「悪」だと思われているし、
著者の意向をふみにじるおそれのある怖いものだけど、
逆に、エンターテインメントとしては、
超訳っぽいものって、たくさんあるでしょう?

シェイクスピアの劇を現代風にアレンジしたり、
源氏物語を漫画にしたり現代語訳したり。

それ、やりたいんっす。
小説家が翻訳をして豊かさを味わえるように、
勝手に、しかも前後の脈絡を関係なく
誰かの言ったことを「超訳」してみようかと。

それを、ニーチェでやってみたいんです。
しばらく哲学書から距離をおいたあとに
ニーチェを読み直したら、予想以上におもしろかったの。
独特の言いまわしを、
勝手に、今のぼくの問題意識につなげながら、
前後の脈絡も変えて訳してしまうエンターテインメントを、
やってみようかと、思うのじゃけえ。

研究者には、怒られるかもしれないけど、
「自分の言ったことを、誰かが踏みつけにした時にこそ、
 はじめて、ほんとうの意味で読まれることになる」
と自称しつづけて、
分裂病のような言葉をまき散らしながら、
ちょうど100年前の1900年に亡くなった彼の言葉がゆえに、
いま、それこそ乱暴に、じっくり味わってみたいんです。

著書に寄りそうようにしながら、
むちゃくちゃ自分勝手に「超訳」したら、
楽しくて豊かなんじゃないかなあと思います。

すでに亡くなった人に
勝手にこっちがわの質問で取材をするような、
この「超訳」で、最初の
「おんなじ人へのおんなじような取材=消耗」
という悪循環じゃないことを試したいんです。

で、無責任ながらも好きなとこだけを見る超訳で、
「ニーチェは神が死んだと言った人です」
という、何かの結論のための駒としてではなくて、
好きな細部には、ずずずずずいと入れるかも。
それを、期待していたりして。

ま、コトバを大げさにすると、夏のあいだに、
木村が、テレビ制作スタッフやdarlingにへばりついて、
必死になって「逆取材」ページを書いていた時の、
http://www.1101.com/telecom/index.html
「消費のクリエイティブ」をするための練習を、
短期集中で、やってみようと。

消費は、単なる消耗や磨耗じゃない。
・・・と、思いたいので。

おおっ。まじめになっちゃった。
まいど、ばかばかしい話で。

(つづく)

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2000-10-06-FRI

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