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#18 ムダな時間は過ごせない


最近、進路に関するメールを、沢山いただいています。
冒頭に、そのうちのいくつかを、ご紹介したいと思います。

「昔、大学の講義で、うろおぼえですが、
 『人は投げられながら投げるもの』という言葉を耳にし、
 『ある環境や状況に人は否応なく、放り出されている中、
  その環境や状況にアプローチしていくのが人間なんだ』
 と勝手に解釈して、今日まで転機が自分に訪れたときや、
 自分から状況を変えたとき、違う場所にいくときなどに、
 思い出してきました。私は今まで、きっと運もよくて、
 それほどの艱難辛苦に遭遇していないせいか、あまり、
 自分の置かれた状況のことで悲観したことはありません。
 しかし、その大学の講義の言葉で、心が『恨み』などの
 ネガティブな感情に傾きにくくなったのは、確かですね」

「私は、どこかに正しい答えが必ずあって、そこへ
 進まなくちゃいけないと思いこんでしまいがちでした。
 なりたい自分に向かっているのに焦ってしまうのは、
 その『行きたいところ』に辿り着く確信がないからか、
 そもそも『なりたい自分』が曖昧だからだと思ってます。
 『したいことがあるけれど、それが、
  マイナスの未来を作ったら嫌だから止めておこう』
 そう考えて、あんまりしたくないことを
 未来の為に我慢してやり続けていた部分もあります。
 その選択は未来にプラスなんてもたらさなかった。
 そのことは、振りかえると、はっきりと見えてきます。
 逆に、誰が何と言おうと私はこれだけは譲れないんだ、
 と自分が意志を持ったものについては、結果的には
 未来にプラスをもたらしてきた、と何となくわかります。
 でも、わからないのは、こうしたいんだ、と
 はっきりと言い切れないときです。そういうときの方が、
 これまでの私の人生では、多かったように思えますので。
 『ものすごくやりたい』と思っているわけではないけど、
 『やったほうがいいだろう』と思っている程度の意志が、
 自分をどこへ導いて行くのか、正直、不安でもあります」

「今日、試験が終わりました。
 結果は、解答速報によるとダメでした。
 毎日毎日勉強して、不安で押しつぶされそうになる中、
 模試の結果のように、あと数点足りずに落ちましたが、
 試験が終わった瞬間、心の底から、終わってよかった、
 と思っていました。自分の好きで試した試験でしたが、
 やっぱりつらかったです。友人にも親にも会わずに、
 旦那にもろくに飯を作ってあげず、自己満足のために
 ただ勉強をしているような毎日は、正直、つらかった。
 だからこそ今年受かってしまいたかったのですけどね。
 ただ、よくわからないのですが、
 『ともかく続けてみる、それも毎日』というのを
 学んだ気がします。レーサーの片山右京さんが、
 『毎日やっていることこそが、努力なんだ』と
 おっしゃっているのをテレビで聞いて、寝ていたのに
 飛び起きて机に向かった日もありました。
 毎日続けるとか、毎日の積み重ねとかというのは、
 本当に地道で目立たなくてつまらないことですが、
 ものすごく単純なそのことは、けっこう、人生のうちで
 いちばん大切で本当の力になり、そしてついた力の分が
 普通に日常になり、またその力の上に、さらに力がつく、
 ということなのかなぁ、と今は思っています」


「これから、どうしていこうか」と思いながら、
この連載を読んでる人は、案外多いのだと想像しています。
それに、毎日、いろいろな時間が確実に過ぎてゆく中では、
「今日という日を、自分はムダに過ごしたのかもしれない」
「昨日の自分の行動は、まちがった選択だったのだろうか」
このような不安を感じる人も、いるのではないでしょうか。

ハイデガーの『存在と時間』という哲学書では、
「同じ人に同じ時間は二度と流れない」という内容が、
何度もくりかえし語られているのですが、そのあたりは、
ムダな時間について悩む人の、参考になるかもしれません。

ハイデガーが、「時間」について主張した考えは、
「人の存在は、そのつど流れている時間と
 切り離すことができない。だから、人の行動への評価は、
 ある孤立した質問からは問うことができないのでしょう。
 行動の意味は、その人の時間の過ぎ方によって違うから」

用語を噛み砕き、要約した形では、こう言えると思います。

つまり、既に流れてしまった時間は、かえってこないし、
同じように流れる時間は、将来には現れないわけでして。

何らかの選択で道を選んだ後では、
人は、その選んだ道を前提に動かざるをえません。
その選択が、一般的に「まちがったもの」とされていても、
いつか気づいて戻るにしても、そのまま進むのだとしても、
その道から動くことしかできません。帳消しにはできない。

ゼロに戻すことができずに、時間はいつも流れているから、
まちがいをはじめてするときと、
まちがいをくりかえしたときと、その行動は、
当人にとっては、そのつど違うものになるというわけです。
同じ行動でも、その時期が違えば、意味は異なってきます。

……そういう方向で、ハイデガーの考えに触れてゆくと、
「ムダな時間はない」と人を慰めるよう話とは違う意味で、
「人はそもそも、ムダな時間を過ごせないのかもしれない」
とさえ、言えることができるようにも思えてしまうのです。
そのつどの瞬間が、その人にはそうでしかありえないから。

ダメな時間の使い方をしていたとしても、
その人の時間は、そうとしか流れようがなかったわけです。
その「同じ時間は流れない」という単純な前提に気づくと、
「人は、まちがえることさえ、できないのかもしれない」
と考えることだって、できるのかもしれません。

これは「まちがい」という言葉の捉え方次第の話ですけど、
それぞれの人に、まったく同じ時間が流れないとするなら、
世界には、まったく同じ問いもありえないことになります。
同じ問いから生じた行動も、それぞれ一度しかありえない。
正せないまま、その人の基盤になってゆくような行動なら、
「まちがい」ではなく、そういう境遇とさえ言えるわけで。

「人は、ムダな行動をすることさえできないかもしれない。
 なぜなら、すべての瞬間がその人に一度しか来ないから」

「人は、まちがえた行いを、実行できないのかもしれない。
 なぜなら、その行動は一度なされたら正せないのだから」

このように考えることは、可能かもしれませんが、
あなたは、こういう言葉を聞いたとき、どう思いましたか?

もちろん、いい行動と悪い行動との違いはあるのだけども、
まちがえたからと言って同じ条件でやり直せる行動はない。
行動がすでに起きてしまったからには、
そのときには、その行いはそうあらざるをえなかった……。

仮に、そう言いきってしまったところから、
「どうやっても、ムダな時間を過ごせないとしたら──」
と、あなたの中で、新しく生まれた考えは、ありませんか?

もしあったとしたならば、
そのときのあなたは、ハイデガーが『存在と時間』を
書いたときと同じような心境になっているかもしれません。

「ムダな時間は過ごせない」は、
なんだか、まわりくどくてわかりにくく思えるでしょうが、
ハイデガーの考える癖がよく現れていると推測できるので、
今回はいくつか、イメージを広げる例を挙げてゆきますね。

……今年夏からの「ほぼ日」で、ぼくは、
「ガキの頃はバカだったなぁ」という連載を作っています。
投稿メールを毎日読んでまとめていると、強く感じるのは、
「子どもが、わけがわかっていないがゆえに
 やってしまったことはおもしろい」ということなんです。

何もわかっていない行動だからこそ輝いていたという話を、
いくつか、実際にいただいたメールから、紹介しましょう。

「小さい時、叔母と夜に二人で歩いていると、いつまでも
 お月さまが追いかけてくるので半泣きになっていました。
 すると叔母が、こう教えてくれたんです。
 『あなたのことが大好きだからついてくるの。味方だよ』
 以来、今も夜に外出するときは、お月さまを見あげつつ、
 『恐くないぞ』『味方だもんね』と思って歩いています」

「私が小学五年生くらいの頃、二歳下の弟に
 『お母さんとお父さんは
  ホントは宇宙人って知ってた?』と言われました。
 『俺も最近やっと正体をつかんだけど、
  気づいてないふりしてる。
  じゃないと食べられちゃうからな。
  姉ちゃんも気をつけろよ』と。
 夕方の薄暗い台所で、晩御飯を作る母親の後ろ姿が
 凄く恐かったものです。そんな弟は、小学校高学年には、
 『部屋の出入りや玄関の出入りでは、片膝を叩いてから』
 などのきまりを作っていて、叩き忘れて部屋を出たときは
 再度叩いて入り直し、また叩いてから退室していました。
 『これでヨシ!』とか言って」

「小学校四年生ぐらいの頃、お風呂の湯船につかりながら
 おしっこをする快感がやめられずに、二〜三回に一度は、
 いけないとは思いつつ、湯船につかりながら放尿してた。
 そんなあるとき、普段は、私よりも先に風呂に入る弟が、
 珍しく、私がしこたま湯船で放尿した後の風呂に入って、
 翌日、弟は原因不明の高熱ため倒れてしまったのでした。
 家族の中で高熱の原因を唯一知っていた(?)私は、
 自らのプライドと弟の命をはかりにかけ、悩んだあげく、
 やはり弟の命には代えられないと思い、まるで
 不治の病に冒されたことを伝える医師のような面持ちで
 『あいつは、ぼくがおしっこしたお風呂に入ったから、
  熱がでたんやと思う』と母に告白したのでした……」


こういう出来事を読んだ後に、
「そうあらざるをえなかったからこそ、おもしろいこと」
について、あなたが思い出すのは、どんな行動でしょうか?

更に、もう一つの例として、
「一度しか時間が流れないからこそ、
 かつての過ちが後で効いた」という種類の談話も、
ぼくがかつて直接に話をうかがったものから、紹介します。
元野球監督と医師の、それぞれ七〇歳以上の方の言葉です。

「ワルでした。高校は五年間通っています。
 だけど、そのうちに、どういうわけか、
 人が『あいつは野球がうまいよ』という目で
 見てくれるようになったら、立ち直ってきました。
 人に認められるというのは、
 人間が立ち直るいい機会になりますね。
 『あ、このままじゃいけないんだな』
 ということで、だんだんだんだん静かになった。
 ですから、ぼくは指導者になってからも、選手たちが、
 いくらワルいことをしていても、あまり驚かないんです。
 『あいつ、俺が通ってきた道を行ってるな』
 というようなもので。そういうときにポツンポツンと、
 『おまえほどのヤツが、そんなことをやってるのは
  ちょっとおかしいんじゃないか』
 なんていう言い方をすると、静まるんですよ。
 だから、悪い経験じゃなかったです。
 そういうのが、人間だと思うんですよ。
 強く期待をされているのに、そんなもん、知るかい、と
 いいかげんなことをやる人は、少ないと思う。
 みんなが期待して認めてくれると、人間は変わります。
 今の若い子たち、どうしようもない子たちなんかも、
 そういうものを早く何か見つけて、
 気の入るものを見つけられるといいと思うんです。
 どうしようもない子たちが、多いでしょう?
 でも、ああいう子も、いくらでも、いい子になると思う。
 いちばん早いのは、一人一人に、
 『こういうものがあるけど、どれかを、やってみるか?』
 というような機会が与えられることですよね。
 ひとつのことをやって、ダメなら次へ行ってみると
 選択をしながら、いちばん好きで得意なものを見つけて、
 その道をやっていくと、早いと思うんですね。
 一度おもしろみを見つけたら熱中できますから、
 そこまで来たら、もうしめたものです。
 やってみているうちに、
 『やたらとおもしろいなぁ』『自分に合っているな』
 と思えるなら、何でもいいんです。
 きっと、暴走族の子なんか、あれ、
 おもしろくてしようがないと思うんですね。
 ただ、人に迷惑をかけているからあれですけど、
 あれがレース場へでも行って、ボンボンやっていれば、
 もっと違ったかたちになるでしょう。
 レースだって、もともと好きでやっているわけですから。
 どちらにしても、気づいた時がスタートで、いいんです。
 ムダじゃないですよ。経験したことは、生きますからね」

「例えば、三か月療養している若者がいると、
 自分の二〇歳ぐらいのころを思うんです。
 ぼくは二一歳のとき、結核で床につきっぱなしで、
 八か月トイレに行けないという生活を送りました。
 そのときに辛抱して、詩を読んだり音楽を聞くことが
 身にしみて感じられて、感性が鋭敏に働いたんですよ。
 そういう経験があると、
 『何か好きなものとか、読みたまえよ。
  君はまだトイレは行けるんだから、いいじゃないの。
  ぼくは八か月のそういう時期があって、
  その後もほんとに困ったけれども、それだけに
  君のつらいさもよくわかる。1週間後に回診するとき、
  そのときにあなた何か読んだものがあったら、
  これ読んだと言ってくれない? ぼくも読みたいから』
 ぼくは、病む人に、未来を提供しようと思ってそう言う。
 一週間先には、医者がまた励ましてくれるという未来を、
 行動や言葉で残すように努力しているんです。
 それは、休んでいた期間があるからこそ、
 患者にとっての失われたときという感覚がわかって
 実行できていることなんですけど。
 はじめは、一年は失なったときだと思っていました。
 同期には、追いつけないほど先を行かれてしまったし、
 ソンをしたなぁと思っていたけど、その期間がなければ、
 ぼくは、患者学を学ぶことができなかったんです。
 医学は研究や教科書で勉強できるけど、患者学は、誰も
 教えてくれないですから……あれでよかったと思います」


これらの例に触れた後にも、やはりまだ、
「人は、ムダな時間を過ごすことができないのではないか」
「人は、まちがえることでさえも、できないのではないか」
という言葉に「え?」と思う人もいるのかもしれませんが、
今日のところは、まず、ハイデガーが強く見つめた、
「生まれてから死ぬまで一直線にしか進まない時間の流れ」
を把握しておいてもらえると、さいわいだと思っています。

次回に、続きます。

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                  木村俊介

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2003-11-02-SUN
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