コンビニ哲学発売中。

#11 自分の太陽を探す方法


小さなお知らせですが、今回から、
「コンビニ哲学発売中 第1回〜第30回」などの
過去のバックナンバーをたたみ、"#1" 以降のものだけを、
扱うことにしたことについて、まず、述べたいと思います。

三年半前に連載をやっていた頃と、今と、
いい言葉を紹介したい気持ちには変わりはありません。
ただ、最近、かつて触れた言葉に関してさえ、違う角度で
おとどけすることの可能性を、強く感じるからでして……。

一日何百通、四年累計で何十万通の「ほぼ日」に届く
メールをすべて読みこみ、何十個の投稿ページを作る中で、
「決断を迫られ、少し不安になりかけているとき」や、
「これまでの自分の信念が通用しなくなったとき」とは、
ほとんどの人に、かなり頻繁に訪れるものだということが、
ぼくには、ほんとに、実感として伝わってきているんです。

もちろん、その都度の岐路に対しての解答に似たものは、
どこかで得られるのでしょうが、その解答は、なぜか、
次の岐路では、ぜんぜん、役に立たなくなったりします。

「もともと要らなかった解答なのか?」とさえ思うような
循環を、人は、ずっとくりかえしているのかもしれません。

そういう人たち──
学生で、部活と勉強と将来への思いに悩む人、
就職活動前に何をしたいか見えなくなった人、
試験を突破することは得意だけど、なぜだか、
これと言って誇ることがないように思える人、
仕事の隙間に「これでいいのか?」とたまに思うけど、
なるべく忘れようとしたまま、同じ問題に悩んでる人、
子育て中、自分の努力ではどうしようもない問いが
いきなり天から降ってきてしまった人、
そんな状態に陥った無数の人たちが、
個人的な考えを積み重ねてゆく助けになるような言葉を、
紹介してゆきたいと、強く思っているんです。

バックナンバーでの紹介の仕方は、
おもしろそうな言葉をお届けするというかたちだったので、
やはり、具体的な目標を前においた今とは、
おのずと、紹介の仕方が、変わってくるわけです。

もちろん、ありがたくも、
「あの不完全なアーカイブでも読みたかったのに」
と思ってくださる方は、どうぞ、ご安心ください。
かつて触れた中でも大切な言葉は、
ほとんどすべて、このページに、くりかえし戻ってきます。
例えば今回は、かつて掲載して反響が大きかったからこそ、
再び、違うかたちで提示したい言葉を、ご紹介するのです。

同じことであっても、違う角度から光をあてたときに
ようやく、人にそのよさが伝わるようになった哲学書が
いくつもあるように、先人の言葉を、重ねてゆきますね。

前回の "#10" に、
次のようなおたよりをいただきました。
アメリカの大学院で研究をしている
理系の研究者の方からのメール。

仕事をしはじめたり、勉強をしはじめた人の
ある気持ちを代表しているように感じられたので、
すこし長めに、紹介したいと思います。

「今はお昼休みです。
 私は今日は実験をしようと思っていたのに、
 計測器がきちんとした値を示さなくなってしまったので、
 実験をできず、代わりに論文を書いています。
 と言っても今日は筆が進まず、まだ一行も書けません。
 卒業の締め切りまであと一か月ほど。
 間に合うのかなぁ、という不安を打ち消すためにも
 何にも考えないようにして、とりあえず
 今日できることを一生懸命やろうと思いながら
 毎日それなりに頑張っているつもりです。
 締め切りさえなければな、教授があれこれ言わなきゃな、
 と心底思うこともあります。

 ひとりで何とかしようとしてしまう
 自分の意地っ張りが、足をひっぱっていると、
 このニ年の研究でよーくわかったつもりです。
 人の評価だけを頼りに自分のするべきことを見つける、
 そんな思考回路が自分の頭をぐるぐる回っています。
 毎日それなりに頑張っているのに、
 私はこれができるぞ、こんなことを知っているぞ、
 こんなことをやってみたいんだ、
 そんな風に言えることがないような気がするんです。
 こんな風にできたらなあ、と思うことは
 いっぱいあるのだけど、こんな風にできたらいいなあ、
 と思うことの実現に向かっていけない自分がいます。
 なぜか、いつも『これをしなくちゃ』と
 重さが乗っかっているような感じなのです。
 自分で自分の仕事を評価できない、
 というのはとても不自由だと思うので、
 『自分がこれまでやってきたことは
  本当に自分が思うように大したことないのか?』
 そんな風に、今、自分に問いかけています。
 
 この間、研究発表の練習をした時に先生に言われました。
 『君はずいぶん時間をかけたろうし、
  たくさんのことをやっている。研究テーマも悪くない。
  なのに、君のプレゼンテーションの仕方だと
  それがちっとも伝わらないよ。
  もったいないなあ。もっとしゃべりなさい』
 言われる通りでした。
 自分で自分の仕事をたいしたことない、
 意味のないことをしていて恥ずかしいなあ、
 そんな風に思いながらプレゼンをしていたのです。

 今こうして書いているけれど、自分の中の
 もやもやした気持ちの原因がひとつではなくて、
 いろんなところから派生していて、しかもおそらく
 そのひとつひとつが、からまっていると思われるので、
 何かを書こうとすると、すべてを書くことができずに、
 どんどんどんどん、こじれてねじれていってしまう、
 書いていて話がまとまらず……そんな風に思いました。
 あ、私の論文もそうだなあ。
 今朝から一行も書けないのは、
 本当は一文字も書けなかったわけではなくて、
 すでに書いた文章に書き足したり、消してみたり、
 順番を入れ替えてみたりした結果、
 訳がわからなくなってしまって、元に戻したからです。

 自分には何かが欠けている気がしてなりません。
 人と話すことがいいのかもしれません。
 『人の心は水道の蛇口と一緒で、
  相手に心をいっぱいに開いても、
  あなたの魅力が枯れてしまうことはないんだよ。
  外に出してしまえばそれだけ、
  次から次へとまた新しいものが溢れて来るんだよ』
 おしゃべりな友達が何かの拍子に言った言葉です。
 私は自分の魅力を出し惜しみしているのかもしれない。
 すべてを一度に言おうとして、そんな言葉を
 見つけられなくて、口をつぐんでしまっている。
 たいした魅力なんてない、と思いながらも
 本当はそれを求めているのに、
 蛇口を堅く閉めてしまっている状態かもしれません。
 私が生きている限りはその水は枯れてないとして、
 蛇口さえひねれば水は出てくるということですよね。
 だったら出してみようかな。そんな風に思いました。
 欠けてたっていいのかもしれない。何もないよりは」


どうしようと思っているときに、
どうしようと焦っている内容から広がる可能性を、
別の角度から照らしてくれる言葉に出会う。
人の生活には、そういうことが多々あると思います。

今回は、考えを、単なる部品や技術として
交換可能なものとしたくないという立場から、
「個人的な哲学」を練りあげていったハイデガーが、
ニ〇代に出会った哲学者の言葉を、紹介しましょう。

神父への道を断念し、神学からさえ離れた彼は、
ニ〇歳の挫折の後、数人の本に特にのめりこみますが、
これからお届けするのは、中でも彼が、生涯を通して
最も感銘を受けた哲学者・ニーチェの言葉になります。

ハイデガーが、興奮しながら読んだことがうかがえる、
後の考えに強い影響力を持った発言。
すでに、以前にこのコーナーで言葉を紹介したときも、
大きな反響をいただいたのですけど、
神様への真面目な気持ちの中で行き詰まったハイデガーが、
夢中に読んだであろうと思えるところを、お伝えします。

自分が信じていることが通用しなくなったときに
読みはじめ、没入していったハイデガーの境遇を思いつつ、
あなたも、いくつかの言葉に、耳を澄ませてみてください。

「誰も彼もが、退屈に耐えきれないようで、
 あなたも、自分自身に我慢ができなくなっていますか?
 今、数え切れない若い人たちを、
 『何かをしたい』という欲望が、刺激し続けています。
 若い人たちは、これから自分の実行することに対して
 もっともな理由や動機をつけるために、悩みたいらしい。
 彼らは、わざわざ、困難を求めてゆきます。
 ウソと誇張にまみれた、ありとあらゆる階級の
 『今は閉塞してどうにもならない状態だ』
 という主張を、よろこんで信じようとします。
 進んで、盲目的な気構えを持とうとさえするでしょう。
 そして『自分は、不幸だ』と思いこむ空想の中から、
 若い人たちは、架空のモンスターを作り出したがります。
 『モンスターと闘うことができるように準備をしなきゃ』
 いもしない怪物を想定して、訓練を積んでいるわけで。
 ……それは、ムダです。
 確かに、そうしているうちに、
 彼らの内面は、なぜか充実するかもしれません。
 自分の内面に独特の不幸を作ることにうまくなれば、
 彼らの創作物は、とても精密なものになるでしょう。
 自己満足は、すばらしい響きを立てることでしょう。
 だけど、彼らの生んだものは、結果的には、
 世界を苦しみの叫びでいっぱいにしているだけです。
 青い彼らは、苦しみを追求している自分たちが、
 いったい何をしているのかが、よくわかっていません。
 だから、『他人の不幸』を壁に描いてみたがる。
 彼らは、いつも、他人のいけにえを必要としてしまう。
 私はそういう態度には、お別れします。
 私は、『自分の幸福』を壁に描くことにするから」

「私は、自分の考えが、自分自身をどこに連れていくか、
 語るべきではないと思っています。
 未来について、わからないでいることを愛するんです。
 約束事の待ち焦がれや、早まった味見によって、
 自分の身の破滅を招くことは、したくないから。
 人は、盲目でいることを、むしろ、よろこんでいます。
 私たちの身体や感覚は、本当は、
 真実とは正反対に向いているのではないでしょうか。
 大昔に血肉化された人間としての身体は、根本的には、
 まちがいを手立てにして生き抜いてきたんだと思います。
 普遍的に、個人的ではなく『正しいこと』を
 主張できる人が素晴らしい、と考える人は、
 その人自身がそんな状態にいないことを、忘れています。
 永遠に真実であり続けるものがないことを、忘れている。
 『客観的に言って俺が正しい』『いや、俺だ』
 と議論をしつづけると、本質を見損なうことになります。
 本来は理性的ではない人間を、見誤ってしまうのだから。
 普遍的で妥当な主張が、どれほどまでに、
 反抗や休息や独占や支配という不合理な動機から、
 作りあげられてきたことでしょう?
 論理的な思考や推論の手順は、それ自体が、
 とても非論理的で不公正である競争の中から
 なんとか適応して、生き抜いてきたものなんです。

 高度に何かを、うたがい続けることは、
 論理的には必要なことかもしれないけれど、
 古来から生きぬいてゆくうえでは、危険なことでした。
 『判断を差し控えているよりも、肯定をすること』
 『まちがえたり、何かを作り出してしまうこと』
 『否定するよりは、賛成をすること』
 『公正でいようと動かないより、何かを決めること』
 祖先の中に、論理的ではないこんな傾向がもしなければ、
 私たちは、そもそも、生まれてこられなかったんです。
 だから、間違っていても、私は自分の船に乗っていたい。
 個人的な考え方にたいして肯定をすることが、
 それぞれの人を、どんなにかあたためて、
 祝福をし、暗がりの先を照らす光になってくれるか。
 そういう肯定が、つまらない陰口や批評から
 どんなにか、人を自由にして自足させ豊かにし、
 他人に幸せを与えることに気前よくさせることか。
 そして、そういう肯定が、どんなにか
 悪を善に変えていろいろな力を成熟させたり、
 恨みや不機嫌の雑草を取り去ってくれることでしょうか。
 それぞれの人は、論理の影におびえずに、
 自分にとっての太陽を持っていいんだと思います。
 他人の船に、無理をして乗らなくても、いいのだから」

「大多数の哲学というのは、
 思想家が病んでいるときに生み出されたものです。
 健康な自分に目を閉ざし、病気という眠りに身を委ね、
 眠りの中から考えを生もうとするのだから、
 起きている時に役に立つ考えは、きっと、出てきません。
 病んでいる肉体が、精神に何を要求するか。
 ……太陽、静寂、穏和、忍耐、医薬、興奮剤。
 『精神の平和を、精神の戦争よりも
  すばらしいと考える感じ方』や、
 『何がなんでも、よりよいものを求める渇望』は、
 おそらく、病気からインスピレーションを得て
 哲学者の頭に生まれた、不健康なものではないか?
 『よりよいもの』を求める動きは客観的とされますが、
 本当は、生理的な欲求をマントで包んだだけだと思う。
 おそらく、哲学を考えるうえで重要な問いは、
 『それは正しいのか、正しくないのか?』よりも、
 『それは健康なのか?』『それは生きているか?』
 といったものなのではないかと、私は思うのです。
 身体を病んだ教養人が、消耗の中で味わおうとする
 薄汚れた享楽なんて、どうでもいいじゃないですか。
 いじましさから生まれたものではなくて、
 快活さから生まれたものが、欲しいんです。

 私たちは既に、知りすぎるほどの情報を持っています。
 だから、今からは、よく忘れることや、
 よく知らないでいることを、学ぶべきでしょう。
 『どんな犠牲を払ってでも、真実を得たい』
 と考えがちな、若気の至りの錯乱を、
 ぼくはもう、まるで嫌になってしまったのです。
 『真実を知りたいんだ』と夜中に神殿にしのびこんで、
 覆われているベールを剥ぎとり、彫刻を
 裸にして容赦なく明るみにさらしてしまうような、
 そんな若者のあやまちを、もう、犯したくないのです。
 そんなことを恐れを知らずにしてしまうにしては、
 あまりにも経験を積み過ぎ、まじめで、
 快活で、火傷を負い、深くなリ過ぎている人にとっては、
 『ベールを剥がされたとしても真実で留まるもの』
 なんて、信じることができないんです。
 そんなことを信じるにしては、
 私たちは、あまりにもたっぷり生きてきましたから。
 なにもかもを裸にして見ようとしないこと、
 あらゆるものの近くにいようとしないこと、
 なにもかもを理解して知ろうとしないこと……。
 こういうことは、礼節の問題です。
 そういう恥じらいを、もっと尊重すべきだと思います。
 すべてを剥ぎ取って真実に達することよりも、
 表面に踏みとどまって、表面上の形式や
 そこに流れている音色や、使われる仮の言葉を、
 表面的に味わうことが、ほんとは必要だったんです」


堅牢な理論と何千年もの教会の基盤があり、
信じなければいけないという重しもある
キリスト教への信仰と神学者としての勉強の後、
ハイデガーは、当時、何ひとつ、
合理的な立証がないと思われていた哲学者の随想に、
たちまち、惹かれるようになってゆきました。

「好きなことだけを語っていれば、
 いつか、語りたいことや求めている事柄に向けて、
 言葉の方から、自分を導いてくれるようになるはず」


すでに紹介した、このハイデガーの態度は、
「自分の立場を決めて、それを守るように行動する」
というものへの反発から生まれています。
この考えに関係しそうな言葉を、今回の最後に、参考までに
ある二人の哲学者の発言として、紹介します。

「私は、求めることに飽きて、見いだすことを覚えた。
 風にさえぎられてからは、風にうまく乗ることにした。
 鋭さとやわらかさ、粗さと細やかさ、親しさと疎遠、
 汚れと綺麗さ、ばかと賢さ……私は現に、
 これらのすべてであるし、そうでありたいと願うんです。
 他人に服従したくないし、指導をしたいとも思わない。
 私は、自分を指導することでさえ、うとましいんです。
 私の好きなことと言えば、獣のように自分をなくすこと。
 妄想にひたりきって、うずくまること。
 そして、しばらくしたら、遠くから自分を呼び寄せて、
 また、私の世界に、自分を誘惑することなのです。
 私は、できるだけ、予想もつかないような所にまで、
 私自身を、連れていってみたいと思います」

「私はアイデンティティ(同一性)を否定しています。
 私は『これ』でもなければ『それ』でもない。
 私は、不安定で不確実な会話の中で
 ゆっくりとかたちをとる空間を作ろうと、試みるのです。
 こう言うのは、何も反論を恐れてるからではありません。
 私は、そこまで『自分』には、こだわっていないんです。
 何かを書くことは私にとって、
 錯綜した問題の手がかりを見つけることなんです。
 書くことは、同時に、自分を見失うことです。
 けっこう何人もの人が、私と同じように、
 『顔を持たないため』に書いているはずです。
 私に『同一にとどまれ』と言わないでほしい。
 書くときには、自分は常に同一であるという
 戸籍上の道徳から、逃れることができるのですから……」


自分自身の、避けられない一本道を抱えつつも、
自分を忘れるほど、没頭してしまうようなものに入りこみ、
更に、好きな方向からものを見つめて、
思いもしなかった言葉が来るのを待つ、ということ。

これは、ハイデガーにとっても、
そうとう大きな指針になっていたのだと思うのです。

次回に、続きます。

感想を寄せてくださると、とてもうれしく思います。
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                  木村俊介
 

このコーナーを読んだ感想などは、
メールの件名に「コンビニ哲学」と書いて、
postman@1101.com
こちらまで、お送りくださいませ。

2003-10-19-SUN

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