PHILADELPHIA
お医者さんと患者さん。
「遥か彼方で働くひとよ」が変わりました。

手紙224 日本のHIV いただいたメール
ほんの少し前まではHIVは死に至る病でした。



こんにちは。
今日はHIVのシリーズについての
感想を寄せてくださった方のメールをご紹介します。

わたしが初めてHIV診療に携わったのは1997年頃で、
当時は「すごく良い薬ができた!」と
みんな盛り上がっていました。

事実、それ以降
HIV治療は飛躍的な進歩を遂げて
「きちんと治療すれば死なない」病気になっています。

でも、ほんの少し前までは、
そうではなかったことを改めて思い出す、
とても胸に迫るメールでしたので
ご紹介しようと思います。

本田さんの連載を読むまで
私自身の検査について
考えたこともありませんでした。

そして、私にも感染の可能性は
あったという事実に正直とても驚き、
そして、感染していないという事実と
知らず知らずのうちに
調べるチャンスがあったということの
ありがたさをかみしめました。

(現在欧米に移民をしていますが、
 移民する際血液検査があり
 HIVに陽性の場合、移民ができないのです)

私自身の認識は薄かったのですが、
私の親友がHIVでご主人をなくされており、
HIVという単語に
敏感になっている自分がいます。

10年以上も前にそのご主人は亡くなられており
そのあと私は彼女と知り合ったのですが、
当時HIVは死を意味する病であり、
看病のため彼女は会社を辞め、
若かった彼は病状の進みも早く、失明もし、
彼を34歳で見送ったあと28歳の彼女の手元には
25ドルほどの現金しかなかったそうです。

悲しみ、というよりは
「怒り」であったと私に語ってくれました。
「新薬の開発を信じて」
それだけを頼りにがんばったと。
でも、間に合いませんでした。

彼を亡くしたあとの彼女は心身ともにぼろぼろで、
その数年後に私と出会ったときの
彼女の印象は「エネルギーの薄い人」でした。

「驚いたことに私は陰性。
気をつけてセックスしていたけれど
覚悟はしていた」と彼女は言いました。

その話を聞いていた私は
本田さんの連載によって、
HIVが死ぬ病ではないということを学び、
本当に驚きました。

15年早かったら
彼らの人生は
まったく違うものになっていたはずで、
私と出会うこともなかったでしょう。

人生にたら、れば、はありませんし、
現在お薬を
飲み続けなければならない方々のご心情も、
私には到底理解の範囲を
超えたものに違いありません。

ただ、こうして、新薬が開発されることだけを
心の頼りに頑張られた人もいて、
それが私の親友で、
私がこうして日本を離れて
本田さんの連載を読んでいる、ということが
何かのご縁であるということを感じずにはおれず、
おたよりさせていただきました。

本田さんの連載がなければ、
私は友達を愛し、気の毒に思いつつ、
正直、他人事としか言わざるを得ない
心境でいたのだと思います。
それは違うのですね。

全ての人に感染の可能性があり、
簡単には感染せず、死ぬ病ではなくなり、
そして、個人の意識の変革により、
助け合っていくことで
社会を変えていくことが、できるのですね。

この患者さんが視力を失われた理由は、
おそらくサイトメガロウィルスという
HIVに合併しやすい網膜の感染症で
あったのではないかと推測します。

治療がめざましい進歩を遂げて、
きちんと治療をすれば、
余命を確実に延ばせる時代になりました。

でも、その一方で、
自分がHIVに感染していることを知らなければ
治療を受けることもできず、
状況は15年前と同じことになってしまいます。

HIV感染症は、検査を受けなければ
感染しているかどうか絶対にわからない病気です。
まず、検査を受けることを
考えてみていただければ、と思います。

では、今日はこの辺で。
みなさま、どうぞお元気で。

本田美和子

2007-03-09-FRI

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