PHILADELPHIA
遙か彼方で働くひとよ。
ニューヨークの病院からの手紙。

手紙156 訪問診療・11 ニューヨーク(8)
執事のいる家



こんにちは。

毎週火曜日の午後は往診です。

一回につき、だいたい3軒から5軒の
患者さんのお宅にうかがいます。
往診に行ける地域は限られていて、
病院から半径4キロくらいの範囲です。

マンハッタンが面白いなと思うことのひとつは、
この狭い地域の中に
ものすごく広い社会階層の人たちが
住んでいることです。

昼間でも何となく危ない感じのする
低所得者向けの荒れたアパートに行くこともありますし、
ちょっと前にご紹介したように、
セントラル・パークを望む
超高級アパートに住んでいる患者さんもたくさんいます。

そんなお家の特徴のひとつは
壁に大きな絵が掛けてあることです。

そこでは、「マチスみたいな絵だなあ」と思って近づくと
それは、たいていマチスの作品ですし、
「ピカソかなあ」と思って見ていると
「それは、父がピカソを援助していたころに
もらった絵よ」と教えてくれたりします。

もちろん、ごく普通の暮らしぶりのお年寄りが一番多いのは
言うまでもありません。

「今日はどんな家にいくのかなあ」と
患者さんのリストを見せてもらうのが、いつも楽しみです。

さて、患者さんのなかには
お金持ち、というよりも富豪と呼ぶのがふさわしい、と
思われる方もいらっしゃいます。

今日はこの方のことについて、
少しご紹介してみることにします。

マンハッタンの中でも
超一等地のビルに住んでいたこの患者さんは
おそらく、みなさまも一度はお聞きになったことのある、
世界的に有名な企業の創業者一族のひとりでした。

その建物は、もちろん彼の所有のもので、
ドアベルを鳴らすと
執事がドアを開けて迎えてくれました。

本物の執事に会うのは生まれて初めてで
ちょっと興奮していたわたしに、
彼は、廊下を歩きながら、飾ってある壷や絵などについて
穏やかにいろいろと説明をしてくれました。

本当にそのまま映画に出てきそうな執事でした。

さて、患者さんご自身は、
もう何年にもわたる慢性の病気があり、
ほとんど寝たきりの状態でした。

もともとヨーロッパ出身の彼のお世話をしていたのは、
5人の看護婦さんと、ひとりの執事、
何人いるのかわからない料理人とメイドでした。
飼っていた犬も含めて、
彼らはみんな、彼の本国から呼び寄せられていました

お若いころは、世界中を相手に
仕事で駆け回っていたであろうこの患者さんも、
今では、1日のほとんどをベッドの中で過ごしていました。

残念ながら全快の見込みのない慢性の病気と
次第に弱っていく全身の状態は、
もう、彼の命が
それほど長くはないことを明らかにしていて、
それは、本人も含め、みんなが理解していました。

彼はまた、骨董品のコレクターとしても
世界的に有名なのだそうですが、
そのコレクションの飾られた部屋に入ることも、
もうなくなってしまっていたそうです。

わたしが伺ったときに
彼の生活に必要だったものは、
身の回りの世話をしてくれる看護婦さんと
電動式の病院用のベッド、
そして、ベッドの脇に置くポータブルトイレだけでした。

これらは、冒頭で少し触れたような、
荒れた低所得者向けアパートに住んでいる
一人暮しのお年寄りが持っているものと同じです。

もちろん、お世話をしてくれるのは
Medicaid(低所得者用の医療保険)が用意してくれる
お手伝い、ホーム・ヘルス・エイドではなく、
免許をもった看護婦さんたちですし、
ベッドやトイレも高級品かもしれません。

でも、実用第一の病院用ベッドと
ポータブルトイレであることに違いはありません。

どんな豪邸に住んでいる富豪でも
人生の最後に必要になるのは
ベッドとトイレと、手を貸してくれる人だけで、
生活は3メートル四方くらいの広さもあれば
十分になるのだ、
ということを目の当たりにすると、
経済的な大成功は
人生のある時期以降には、
あまり大きな意味をもたないのかもしれない、というような
気さえしてきました。

何だか最後はだんだん暗くなってきてしまって
すみません。

この患者さんは
暖かいひとびとに囲まれて
穏やかに過ごしていらっしゃいましたが、
今年のはじめにお亡くなりになり、
この家と、骨董品のコレクションは
そのまま全部ニューヨーク市に寄付されました。

さて、訪問診療のシリーズも
そろそろ終わりに近づいてきました。

日本でもアメリカでも
訪問診療はそれだけで独立しては採算がとれず、
多くの場合は医療側の持ち出しになっています。

次回は、膨大な赤字をどうやって埋めているのか、
ということについて
お伝えしようかと思います。

では、今日はこの辺で。

みなさま、どうぞお元気で。

本田美和子

2002-08-18-SUN

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