PHILADELPHIA
遙か彼方で働くひとよ。
フィラデルフィアの病院からの手紙。

手紙10 「飛行機(1)」

こんにちは。
しばらく休暇でのんびりと過ごしてきましたが、
とうとうそれも終わって、なくなく帰ってきました。

休み中に糸井さんをはじめ「ほぼ日」の方々に
初めてお目にかかりました。
暖かいおもてなしを受けて、
とても楽しい時間をすごしたのですが、
そのときにまず、尋ねられたのが
「飛行機の中で、病人が出たって
よばれたことありますか?」
ということでした。

なんとまた、唐突なご質問。
あります。一度だけ。
今日はそのときのことについて。

もう4年くらい前、
職場の同僚と米国へ秋休みの旅行にでかけたときでした。
米国の航空会社の成田発デトロイト行。
エコノミーの席は9割近く埋まっていて、
窮屈な旅行でした。

米国へ出かけるときはいつも、
最初の食事直後に睡眠、
なぜかアイスクリームを配っているときには目がさめて、
その後着陸前の食事まで、また寝る、
という時間を過ごしているのですが、
そのときも座席で熟睡中でした。

隣に座っていた同僚が、
「今、医者を探してるって機内放送があった。」
とわたしを揺り起こしました。
なんという不運。
起こされなかったら、
知らずにずっと寝ていられていたものを。

でも、律儀な同僚は
「やっぱり、行くべきだと思う。何度も放送していたし。」
「でも、一人じゃ行きにくいから、一緒に行こうよ。」
と、強く誘います。

仕方なく、スチュワーデスさんに、
「あのー、わたしたち内科の医者ですが、
 患者さんは大丈夫ですか。」
(大丈夫じゃなさそうだから呼び出しているのは
 百も承知でしたが)
と聞いてみると、そのまま患者さんのところに
連れて行かれました。

驚いたのは、
わたしたちが医者だと名乗れば、
それだけで信じてもらえたこと。
もちろん卒業証書みたいに大きな医師免許を
いつも持ち歩いている訳ではありませんし、
その番号も覚えていない。
証明できるものといえば勤め先のIDカードぐらいですが、
それだって法的な拘束はないと思います。

まあ、ともかくわたしたちは航空会社の人達に
一応信用されて患者さんのところに行きました。

歩きながら考えていたことは、
もし、患者さんが心臓病などの一刻を争う状態だったら
どうしよう、ということと、
これで、もし訴訟に巻き込まれたらどうなるんだ、
ということでした。

そのとき、以前アメリカ人の友達が、
似たような目に遭った時のことを
話してくれたことを思い出しました。

彼の場合は狭心症の発作の患者さんで、
その人がいつも持ち歩いている薬をもっていなかったので
機内放送で呼びかけたところ、
そのまま薬局ができるくらい、
頭痛薬から下痢止め、抗がん剤まで
それはそれはたくさんの薬が集まったそうです。
もちろんその中には狭心症の薬もあって、
患者さんの症状はいったん軽減。
目的地まであと20分ぐらいだったので、
行き先も変更せず無事到着したという話でした。

その話のなかで最も重要なポイントは、
このように時間も薬も限られた中での
善意に基づいた医療行為については慣習法で
(たしかGoodman’s Lawといっていたと思います)
善意の行為者は守られている、ということでした。

「よっぽどのことがない限り、
 医療過誤が問われることはないはずだ。」

そのアメリカ人の友達の話に
どれほどの根拠があるのかもよくわからないまま、
そう自分を励まして、患者さんのところに向かいました。

患者さんは10歳のアメリカ人の男の子でした。
かわいそうに、離陸後おなかが痛くなって、
ずっと吐き続けていました。
内科の年齢ではありません。小児科じゃないか。

でも、わたしたちのほかには
名乗り出た人もいなかったので、問診を取り始めました。

この子はデトロイトに住んでいて、
車の会社に勤めているお父さんの出張に一緒にくっついて、
日本に遊びに来た帰りでした。
お父さんは仕事がまだ残っているので、
そのまま日本に滞在していて、
その子は一人で母親の待つデトロイトに帰る途中でした。
日本最後の日に、浅草でお父さんと一緒に
生焼けのお好み焼きを食べたほかは
特に怪しい食べ物はなさそうでしたし、
これまでもごく健康な少年でした。

じゃ、診察しようかということになって
スチュワーデスさんが医療用バッグというのを
持ってきました。
封がしてあって、MD(医者のことです)または
看護婦以外あけるべからず、と書いてあります。

入っていたものは、
血圧計と懐中電灯と舌圧子(のどの奥を見るために舌を
押すアイスクリームのお匙みたいな木のへら)と聴診器。
それだけ。
薬や点滴の道具は何もありませんでした。

とりあえず、血圧を測って、聴診器でおなかの音を聴いて、
問診の内容から考えても、緊急性はなさそうな、
急性胃腸炎でしょうと診断をつけました。
ちょっと脱水ぎみなので、水分をあげたいのですが、
点滴の道具は何もないので、様子を見ながら
経口で少しずつジュースを飲ませました。

男の子の様子も少し落ち着いて、
自分達の席に戻ったところ、
スチュワーデスさんが書類を持ってやって来ました。
今回の患者さんについてのレポートを作成しろ、
というのです。
3枚複写になっていて、自分の名前や所属、専門科、
患者さんの状態に関する考察と医療処置について
わりと詳しく書かされました。
その後、機長がサインをした後に
複写の1枚を記録用に渡され、
それから、ビジネスクラスのお客に配っている
スリッパと靴下をもらいました。

その後男の子はぐっすり眠って、
4時間後に飛行機は無事デトロイトに着きました。
すごくほっとしたことを覚えています。

飛行機は、医療用器具をほとんど搭載していません。
頭痛薬以外の薬もありません。
何か持病をお持ちの方は、できるだけ自分の薬を
いつもお持ちになることをお勧めします。

では、今日はこの辺で。
みなさまどうぞお元気で。
さようなら。

本田美和子

1999-07-25-SUN

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