SHIRU
まっ白いカミ。

112枚目:「年賀状考」

セクハラに耐えつつお酌をしてまわったり
エレベータの下座(あるんだよ!)に立って
止まる階を聞いたりばかりしてると
なんの為に全自動なんだか…
指があるならボタン押せ!と思うのですけれども
押して欲しがる人がいるんだから困りものです。

朝御飯を食べていて
婆ちゃんが卵に醤油が欲しそうだったからとってあげる。
そんな「うまく声が出た朝の挨拶」的な
心地よさと何が違うのかと思ったら
そういう事をしたくなるような
関係性を築くだけのキャパシティーを
相手が持っているのか…と
そういう個人的なところにけっきょくはおちつきそう。

喧嘩して欠けた歯の差し歯(保険不適用)より
ビニールっぽくて丈夫で雨に濡れても平気。
そんな通学用ヴィトンを贈るために
つらい肉体労働をしているのがたぶん楽しいように。
そもそもお酌だって本来の文化的発生経路を考えると
自分で注いだ方が無駄が無いのに…というより
相手がもっと飲みたいのかとか、いつもの体調と較べて
食の進み具合は…なんて気遣ったりできるのが楽しいから
自然に生まれたものなのでしょう。

そういうのに形にから入って
時間を割いているのは面倒になってしまい
年賀状さえ廃止して早、数年。
代々木アニメーション学院と小山ドライビングスクールと
美容院からの3枚しかカードが届かなかった昨年。

好きな子から年賀状が届いていて
どうでもいい時候の挨拶。たとえば「謹賀新年」とかを
暗記するぐらいに読み返したり
「謹賀というのは、こんど一緒に遊ぼうって意味なんじゃないか?」
深読みしたりして冬休みが終わってみると
45人全員に同じ年賀状が届いている事を知ったりする。
遠い思い出に時候の挨拶ってどうなんだろうなあ…と
ちょっと考え直したりしてます。

いまこれを書いてる片手に飲んでるウィスキーも
父宛のお歳暮に届いたものなんですが…
もう会社で送るのって機械的に贈っているので
みんな一緒で面白くもなんともありません。
年末になると多量の(まずい)ハムが届きます。
高価なものは贈れないし
相手が公約数的に喜ぶものだってよく分からないけれど
単三電池1年分とか
ディチェコのパスタ麺を段ボールひとつとか
そういう予算に合わせて洒落たものを送って
自分を印象づける楽しみだってあるのに…。
商品券なんかをお互いに送りあうぐらいなら
もう廃止した方がずっといいです。

うれしいことに義務的に送る相手は誰もいないので
いまからじゃもう間に合わないし埋もれちゃうから
のんびりと春ごろにオフピーク。
落描きを考えるのが楽しい相手にだけ送ろうと思うのでした。
ささげる詩? 贈りません、そんな処分に困るもの。

シルチョフ・ムサボリスキー

1999-12-30-THU

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