小倉充子さんと、江戸のきもの。江戸型染作家の小倉充子(おぐら・みつこ)さん。
型染という手法で、江戸の風俗を、浴衣や、
下駄の鼻緒、手ぬぐいなどに描きだします。
小倉さんの描く江戸は、
まるで「いま、ちょっとそこで見てきた」みたいで、
しかも、ほかにはないオリジナル。
小倉さんの浴衣を着て下駄を履き、夏の東京を歩くと、
「ああ、ここは、江戸とつながってるんだなぁ」
なんて思ったりして。
もしかしたら小倉さんって、江戸と行き来できる
からくり下駄を持っているのかもしれません。

5月9日から大橋歩さんの
「イオグラフィックギャラリー」で開かれる個展を前に、
小倉さんの工房におじゃましてきました。
型染のこと、神保町の実家のこと、
そして、大好きな江戸のこと、
いろいろ、聞いてきましたよ。

第三回 小倉さん、どうして江戸型染の作家になったんですか?


見る人を圧倒する大胆な図案の作品。
江戸型染作家、小倉充子さんの数々の作品を目にすると、
気になるのは、彼女の素顔です。
これほど「粋」を感じさせる
江戸世界を描き出す作家とは、
一体、どのような人なんでしょう?

江戸を離れて、茨城のアトリエで。

小倉さんを訪ねて降り立ったのは、
茨城県の龍ヶ崎市。
上野から電車に揺られること1時間、
そこからさらに車で移動すること10分の、
こじんまりとした古い一軒家が、
小倉さんのアトリエです。

このあたりは、都内への通勤圏なので、
外の風景は、よく見る、いわゆるベッドタウン。
江戸型染作家のアトリエというので、
隅田川が見える場所とか、
お寺や神社があるようなところかなぁ、
なんて思っていたものですから、
どうしてこういう場所にあるのか?
不思議にさえ思えちゃいました。

「藝大時代から、
 このあたりには、馴染みがあったんですよ。
 同じ常磐線の取手駅に
 藝大の取手キャンパスがあるんです。
 私のような駆け出しが、
 アトリエに使うには、とにかく広くて、
 賃貸料が安いところでなくてはならないので、
 ちょっと土地勘があって、
 東京より安い、このあたりに探しました」

その、藝大で学んだのが
江戸型染だったのかと思ったら、
大学院までを過ごしたのは
「美術研究科デザイン専攻」。
そこでグラフィックデザインを学んでいたのだそうです。
若き日の彼女が目指していたのは、
舞台などの、立体的な空間をつくりあげる世界でした。


いったい、どうして 環境デザインを目指した人が江戸型染に?!

「1年間、多摩美で『インテリア科』に在籍、
 それから藝大に入りました。
 入学時は環境デザインを目指していて‥‥
 ところが、自分の頭では、
 立体の空間を生み出せないということに、
 1〜2年の基礎課程で、気づいてしまったんです。
 くーっ!(笑)
 自分で空間を生み出せないなら、
 せめて空間を構成する布とか木とかに、
 絵を描いてみよう!
 そう思ったわけです」

その後、小倉さんは、3年のときに
「形成デザイン」という、
文様を研究する専攻にすすみます。
そして布に絵を描く制作にのめり込んでいったようで、
染色の表現の試行錯誤をしたり、
専攻とは関係ない学科に出入りしたり、
染色職人さんの特別講義を受けたりしながら、
自分の表現を模索しました。
その過程で出会ったのが、
江戸型染の師匠でした。

「藝大の同級生に
 染屋の息子さんがいたんですよ。
 そのお父様というのが、
 私の江戸型染の師匠となる
 西耕三郎先生だったんです」

布の絵からはじまり、
染色に興味を深めた小倉さん。
きものは、着慣れているとは
言いがたかった、ということですが、
なにしろ神保町の下駄屋の娘です。
小さい頃から慣れ親しむ環境にはありました。
きものに絵をつける技術を学びたくて、
弟子入りの志願先を探しましたが、
すでに、きもの業界は、ゆるい下り坂に。
なかなか、芸大卒の弟子をとろうという人は、
いませんでした。
そんな状況の中、ある日、友人から
「父親の古い染工場を
 取り壊すことになったから 、
 最後にどんなものか見に来てみたら?」
と誘いを受けたのです。
ふらりと訪ねたその工場で、
江戸の技術を目の当たりにした小倉さん。
「これしかない! ここでやりたい!」と
強く思ってしまったのだそうです。

「勝手にそう思われても、
 もう閉める工場ですから
 相手も困るわけです(笑)。
 でも、
 “工場は閉めるけれど、
  自分の個人工房は続ける。
  そこで教室をやっているから、
  良かったら参加するか?”
 って聞かれて。
 それでその教室に参加させてもらうことにしました。
 やがて、師匠は、
 すこしは見込みがあるやつだと思ってくださったのか、
 工房をある程度、
 自由に使わせてもらえるようになったんです。
 それから数年間は、アルバイトをしながら
 師匠から技術を修得をする毎日でした」

そんな縁で弟子入りを果たすことになった
西耕三郎先生。小倉さんにとっては、
この西先生の存在がひじょうに大きいものでした。

「西先生は、もともと更紗が専門の職人さんでしたが、
 ほかの技法にもたいへん詳しいかたで、
 江戸型染の一通りすべての技を
 私に教えてくれたんです。
 そして、自分で図案もつくって、
 私の絵に対しての的を射た意見を
 言ってくれる人でした。
 ふつう、職人さんは
 図案はあんまり自分じゃつくりませんから、
 絵に対してのアドバイスはしません。
 でも師匠は違った。
 “あなたは絵が描けるのだから、
 技術よりも、もっと、絵を描きなさい”と
 おっしゃってくださって、
 布に絵を染めるとはどういうことなのか、
 こまかな指導をしてくださったんです」

しかし、実際には、
決して生易しいものではなかったようです。
「おっ、いい感じだ!」
と自分で思うような図案が、
いざ布に配置する段になると、
どうも上手くいかない。
絵が、生きてこない。
きものに、ならない。
ところが、その図案を西先生にあずけると‥‥。

「私のいくつかの図案をあっという間に並べ変えて、
 師匠が配置し直すんですが、
 それが、みごとに“きもの”になるんです。
 私も、グラフィックデザインを
 学んだことがあったので、
 それなりにできるつもりではいたのですけど、
 西先生のきものに対するバランス感覚、
 配置の感覚というものには、
 見ていて鳥肌の立つものがありました。
 もの心ついたときからきものに触れて、
 絵心もある彼の感覚は、凄かった。
 だから、彼から教わったものの中では、
 きものの図案のアレンジの感覚というものが、
 何よりも大きかったと思います」


江戸型染の作家になる!

小倉さんの作品の図案の大胆さは、
きもの図案への審美眼を持った師匠に
鍛えられたものだったわけですね。
小倉さんはそんな師匠の元で修行をした後で、
1997年、独立をすることになります。

「独立するときは、
 実務的なこと、たとえば確定申告のことやら、
 呉服屋との付き合い方やら、
 いろいろなことを教えてくれました。
 なかでも大きかったのは、
 “あなたは自分で(江戸型染の)作家になって、
 自分で直接お客さんにその作品を売りなさい”
 というものでした」

つまり、職人につくらせるのではなく、自分でつくる。
そして、呉服屋に卸すのではなく、自分で売る。
「自分ですべてやりなさい」
というメッセージでした。
現在の小倉さんは、その教え通りに、
展覧会を催し、その場で販売(受注製作)するという
スタイルをとっています。

センス、画力、技術、素養、
教養、ビジネス、そして思い。
小倉さんが江戸型染の作家になり、
独自の作品をつくりつづけてきた背景には、
そんな礎があり、確かな人物からの教えがある。
小倉さんの作品に感じる奥行きは、
そんな背景があってのことなんですね。

さらに、小倉さんの作品は、
彼女が江戸っ子であるということに
大きく関係していそうです。
でも、一体、江戸っ子の江戸って、何?
次回は、小倉さんの江戸っ子ぶりを
レポートしたいと思います。
どうぞお楽しみに!


2009-05-10-SUN

前の回へ
トップへ
次の回へ

(C)hobo nikkan itoi shinbun