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あめ
 
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第18回 さまざまなバリエーション。
どんなに愉快で楽しい作品であろうとも、
それをつくるのには
尋常ではない苦労があるのだということは
ぼんやりと理解しているつもりである。
けれども、あえて無責任に、
個人の感想として書くとすると、
「これをつくるのってたのしそうだなあ」
と思えるような作品が世の中にはある。

『ピクミン2』を進めていくと、
さまざまな生物がつぎつぎに登場する。
さまざまな風景がつぎつぎに登場する。
さまざまなアイテムがつぎつぎに登場する。
その豊かなバリエーションを見ていると、
「ああ、これをつくったり考えたりするのは
 なんだかたのしそうだなあ」
と思えてくる。

たとえば、
カエル、みたいな生物。
電気クラゲ、みたいな生物。
エビとヤドカリの進化形、みたいな生物。
ピクミンをさらっていく羽虫、みたいな生物。
その羽虫の幼虫、みたいな生物。
でっかいクモ、みたいな生物。
でっかいクモの機械バージョン、みたいな生物。
岩をはき出す生物。
ピクミンを吸い込む生物。
二匹のあいだに電気を流す生物。
なにもしない生物。
水に棲むやつ。地中に潜るやつ。
実をむさぼるやつ。すげえ跳ねるやつ。
頭が鳥で身体がヘビ、みたいなやつ。

そういう、生物のバリエーションを決める
会議かなんかがあって、スタッフの人たちが
つぎつぎにアイデアを出していく風景というのは
とってもたのしいんじゃないかと思う。
とっておきの「俺アイデア」を出したり、
それに全員が反発したり、
大爆笑されたけど通らなかったり、
イマイチな案にもうひとつのイマイチをくっつけて
見事な実用案に昇華させたり、
全員がハッと同じ考えを思いついて同時に叫んだり。
「頭が鳥で、身体がヘビっていうのどう?」
「それは飛んでるの? 這ってるの?」
「うーーーん‥‥潜ってる。
 地中で待ち伏せしてて、突然現れる」
「いいねえ」
そういう会議がほんとにあったのかどうか知らないけど、
想像すると、なんだかとってもたのしそうに思える。
無責任ついでにいえばちょっと参加してみたいとも思う。

バリエーションの多彩さは生物にかぎらない。
風景や、アイテムにも、さまざまなバリエーションがある。
雪の景色、春先の景色、水辺の景色、枯れ葉の景色、
砂場、植木鉢、廃墟、古びたタイル。
ビー玉、乾電池、牛乳瓶のフタ、空き缶、
貝殻、バネ、鳥の羽、宝石、おもちゃ。
ゲームが進展して新しいバリエーションが登場するたびに、
僕は、「こうきたかぁ」といちいちうなってしまう。

とりわけ僕は好きな作品に対して
ついついつくり手の立場にたって
おもしろがってしまう性分を持っているため、
豊かな世界のバリエーションに出会うたびに
つくり手の愉快な表情を思い浮かべて
にやにやしてしまう。

さらにいうと、
僕はバリエーションの豊富さにのみ魅了されるのではない。
単純に数が多いというだけでは
いちいち感心したりはしないと思う。
『ピクミン2』に登場するバリエーションには、
根本を貫く統一されたルールのようなものが感じられる。
つくり手が、それを誠実に守っている雰囲気が感じられる。
だからこそ、
僕は生み出されたバリエーションに魅力を感じ、
そこにつくり手の顔を思い浮かべてしまうのだ。
逆にいうと、もしも
『ピクミン2』の世界に登場する生物や風景が
「なんでもアリ」なものばかりだったら、
僕はそれらに対していちいち
「こうきたかぁ」とは感じないし、
それらをつくることがたのしそうだとも
感じなかったと思う。

貫かれているのは、ひとくちにいえば
『ピクミン2』の世界が、
ほんとうにどこかに存在しそうであるということ。
受け手がそれをはじめて見たときに、
同じ世界に存在するものとして違和感を持たないもの。
差異を生み出すためのバリエーションではなく、
ひとつの世界を形づくるために必要なバリエーション。
そういう最低限のルールが貫かれているからこそ、
あのバリエーションは魅力的に思えるのである。

もうひとつ指摘すると、
『ピクミン2』に登場するさまざまなバリエーションには、
ある種の「懐かしさ」を共通して持っているように思う。
映し出される風景は、子どものころ過ごした
庭先や裏山のそれを彷彿とさせるし、
集めるお宝はどれも、昔、引き出しの奥に
乱暴に押し込められていたようなものばかりだ。
キレイだったり気持ち悪かったりする生物は
図書館で熱心にめくった
百科事典や図鑑のページを思い起こさせる。

無理矢理そこに呼び名を与えるなら、それは、
「昭和の時代に幼児期を過ごした者が感じる
 小学校のイメージ」ではないだろうか。
登場するさまざまなものにいちいち魅了されたり、
つくるのがたのしそうだと思えたりするのは、
僕がそこにドンピシャの世代だからかもしれない。

古い木造校舎の水飲み場を彷彿とさせる洞窟にもぐった。
僕はいったん洞窟に入ると、
一気にそれを最後まで進めてしまいたくなるのだが、
昨日はめずらしく途中で引き上げて帰った。
それは、途中のフロアーで、
草むらにチョウチョが群生している
幻想的な場所があって、
そこでのんびりチョウチョを見ていたら、
なんとなく、今日はここまでにするか、
という気分になったからだ。

2004-10-12-TUE


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