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はれ
 
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第6回 馴染んできた。
ようやくにして、ゲームをつかみ始めた。
操作に慣れたというだけでなく、
ゲームのなかに、自分が馴染み始めたということである。
ことわっておくけれども、
それはこのゲームが複雑だということではない。

およそどんなゲームでも、入口には敷居がある。
最近に限ったことではなく、僕が現役でゲームを始めた
スーパーファミコンくらいから、
ゲームって、たいていそうである。
ファミコン時代にそれがどういう印象だったのかは、
僕がそのころゲームをプレイしていなかったので
わからない。

思うのは、そういった敷居はゲームに限らないもので、
およそすべての作品に対するときには
受け手はなんらかの敷居を意識するのだろうということだ。
たとえば小説を読むにしても、
1ページ目から登場人物に感情移入はできないし、
印象的なオープニングから映画が始まるときも
観客はいきなり画面の隅々を
食い入るように観たりはしない。

ゲームが始まってしばらくして、
あるいは数十ページがめくられていって、
もしくは上映から数分間が過ぎて、
ようやく受け手はそのなかに入り込み始める。
「これは誰?」「いまいつ?」という意識なしに、
当たり前に作品を受け入れることができるようになる。
いい作品ほどそれは速やかで、
入っていく自分が心地いい。

ふだんあまりゲームをやらない人が、
年に一度くらいゲームに興味を覚えて
話題作をやってみたのだけれど、よくわからなくて
すぐにやめてしまったという話を聞くことがある。
そんなとき、たぶん、その人は、
「自分はゲームをやる人じゃないなあ」なんていうふうに
感じるんじゃないかと思う。

けど、ゲームファンだって、同じなのだ。

スタートボタンを押してすぐに、
「はいはい、そういうお話ね」とわかり、
「これを押すと、こっちね」と会得し、
「つぎはこれをすべきだ」と察するわけではない。
いま自分がプレイしているゲームについて
こういうことか、とつかむまでには
ゲームファンだっていくらか時間がかかるのだ。

返済率が30パーセントを超え、
3つ目の着率地点を見つけ、
ピクミンの種類も4種類になった。
4種類目のピクミンが超かわいくて、
昔自分で企画してつくった携帯ストラップを
探してみたくなった。
もちろん、新たな生物と出会ったときは
「きゃあ」と叫んで逃げ回ってしまうけれども、
右も左もわからないというふうではなくなってきた。

これまではいくらか能動的に
ゲームをつかみにいっていた僕だけれども、
昨日あたりのプレイからは、電源を押すだけで
ゲームにすんなり入っていける。
というか、むしろ、今日はどこまでやるのかという、
やめどきのむつかしさを感じているくらいだ。

そして、そのようにしてゲームをわかり始めた僕が、
いま強く感じていることは、
『ピクミン』と『ピクミン2』は
ずいぶん違うゲームであるということだ。
また長くなってしまったので、
その話はまた、あらためて。

2004-07-11-SUN


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