MORIKAWA

森川くん、人工知能の本をここで再編集。

<総括#1>

ぼくは幸いAIについてはシロウトなので、
多少音痴なことを書いても許されます(でしょ?)。
系統立っているとか、厳密であるとか、
客観的であるとか、平等であるとか、
そういうAI業界に対する配慮もいりません(でしょ?)。

本書を書こうときめたとき、
そういうシロウトの特権を利用しまくろうと決心しました。

その結果、
こういう「その他」という章がうまれてしまいました。
AI関連のことで、個人的に面白いなぁと思った
小ネタだけをほぼ脈絡なく集めた章です。
ゆえに、まとまりはありませんが、
自分が一番書きたかった章であります。

以下、「マッチ箱の脳」の「ニューラルネットワーク」より抜粋


■AIをとりまくもの

リストなどの整理の際、
「その他」という項目を作るのは、
項目を整理していないことに等しいという指摘があります。

ぼくは、物事の整理が人一倍ヘタで苦手なので、
最後に「その他」という意味合いの章を作りました。
ここでは、これまでの章で書ききれなかった、
AI周辺について考えていること、注目していることを
並列的に物置のように詰め込むことにします。
そして、どさくさにまぎれて、
この章をもって「終わりに」としてしまおう
という魂胆です。

<発展途上のAI>
●速い、安い、コントロール不能

どういうわけか、世紀末というのは
「その世紀の反省」の時代になりますね。
美術の価値観も経済のシステムも、我々の生き方も、
それに科学のあり方も、
「次の世紀は、今までのようなあり方の
 延長でいいのだろうか」
という反省がそこら中で起こります。
こうした反省姿勢は20世紀の世紀末だけじゃないらしく、
前の世紀末もその前の世紀末も、
ずっとそうだったというのは面白いです。

さて、そのような反省が
AIの世界でも起こったのかというとあったのです。
これから紹介するMITの教授であるブルックスは、
今までの人工知能の研究の方向に反省をもたらした
代表的な人物です。

実は、今、
人工知能の研究は停滞しているといわれています。

1965年に
「20年以内に計算機は人間ができる
 どのようなこともできる能力を持つ」
と予言した人工知能の研究は、1990年代に入っても、
「人間ができるどのようなこと」はおろか
「3歳児の知性を超える」こともできないまま、
「月に行くと息巻いていたのに、
 結局、隣の木の上に登っただけ」(松原仁)と、
その評価はあまりかんばしくありません。

これには、この「(人工)知能」という言葉も、
災いしていたような気がします。

知能というと、学習、問題解決、推論、言語理解、
知覚、認知と非常に高度な知的精神作用みたいなものを
イメージしてしまいます。
こうした問題に対して、
真正面から突撃していった、
今までのAI研究の勇気はたたえられますが、
現在の我々の科学知識ではちと荷が重いようです。

我々は、我々の「知能」というものがなんなのかさえ、
まださっぱりわかっていないからです。
ブルックスの指摘もまた、
人工知能の研究が行き詰まっている原因は、
知能=我々人間の知能と
想定したことにあるのではないかというものです。

例えばゴキブリです。
果たして彼らは知的でないと言いきれるでしょうか。
確かに彼らは、学習、問題解決、推論、
うんぬんといった高度な知能は持ち合わせていませんが、
それでも2億年以上、
この世界にちゃんと対応して生息しているわけです。
こうした、生き延びる知恵を知的と言えないだろうか? 
といった視点で、彼の研究は始まります。

ということで、彼の主張や研究を通して、
知的とは何かという問題を
ちょっと考えていきたいと思います。

●ブルックス
ブルックスは現代を代表する人工知能学者の一人です。

彼は、現在のAI研究の問題点をこう指摘します。
自然界のような煩わしさや危なっかしさがない、
箱庭のような実験用の
人工的で甘やかされた環境の中でしか動けない
「高度」な知能を作っても意味ないんじゃないか。

彼は、こうした人工知能をGOFAIと呼んでいます。
GOFAIとはGood Old Fashioned AIの略で、
「古きよき時代のAI」という意味です。
もちろん褒め言葉ではなく、
従来のAIに対する皮肉として使われる言葉です。
つまり「時代遅れ」と言っているわけです。

彼のGOFAIに対する批判は痛烈です。
それでいて、なかなか気が利いている言い回しであるためか、
たくさんのメッセージが紹介されています。

そんなブルックス語録の一部を紹介しましょう。

◆「思考だけして行動しないシステムより、
  行動だけして思考しないシステムの方がよほど知的だ」

◆「部屋を横切れないような<天才>よりも、
  でこぼこな場所でも、
  体を揺さぶりながら渡り切ってしまう
  <愚か者>の方が正しい」

さらに彼は特に、
架空の実験(シミュレーション)には手厳しくて、

◆「シミュレーションによる行動の発生は、
  現実を反映していない」

◆「シミュレーションによる成果は科学に値しない」
 (ぼくは、↑これはさすがに言いすぎな気がする)

◆「シミュレーションは常に成功してしまう危険を
  内包している」
などと、シミュレーションを非難しています。

ちなみに、彼は「速い、安い、コントロール不能」
という題名の有名な論文を発表していますが、
これは今までの
「遅く、高い、コントロールしすぎ」な
人工知能の研究を皮肉った題名です。
もう一つの有名な論文
「ゾウはチェスをしない」と併せると、
さらに
「遅く、高い、コントロールしすぎで、
 チェスしかできない知能」
の研究と手厳しい意見となります。


●ゲンギス

こんな手厳しいブルックスですが、
彼が非常に偉いと思うのは、そうした批判だけでなく、
こうあるべきだという提案とともに
「ゲンギス」
(ジンギスカンという意味というか、発音らしい)
という6本脚のロボットを作り上げてしまったことです。
しかも12カ月で。

これは、従来のAIの手法を駆使したロボットと
全く違って実にいいかげんです。

障害物がたくさん置かれている地面を歩き回る
ゲンギスは、障害物にぶつかると
それを乗り越えられるかどうか、高く脚を上げる。
そして、乗り切れるようならそれを乗り越え、
ダメなら方向転換します。



このゲンギスが面白いのは、
通常行われるような、
<カメラで障害物をキャッチし、
 その高さなどを分析してモデル化し、
 どう対処するか計画を建てそれを実行する>
というように、脳が目や耳といった感覚器から情報を集め、
それらから今自分の置かれいている状況を理解して、
どう行動すべきか判断するといった中央指令的、
トップダウン的方法を取らないことです。

どうするかというと、
脚に付いたセンサーが障害物にあたったことを感じ取ると、
それを<避ける>ことだけをします。
障害物の高さなどは一切考慮しません。
ただ、ぶつかったので避けることだけをします。
他の脚は、うまく避けられるように、
基本の脚と協調するように動きます。

このように、歩けるようならそのまま歩く、
障害物にぶつかるなどして、
それができなくなったら
避ける行動を取るといった感じです。

こうした現場判断的行動をしているだけなのに、
ゲンギスは散らかった「現実の」部屋で
もすいすい動き回ることができます。
しかも、秒速15cmという
(ロボットとしては)とんでもない速さで。

ブルックスは自ら、
このゲンギスを「推論なしの知能」と呼んでいます。

彼は、
「今までのAIのアプローチは、最も単純な環境で、
 最も簡単なシステムからスタートし、
 徐々に両方の複雑さを増していって、
 作り上げていこうとして失敗している。
 わたしは、最初から複雑な<現実の>環境に
 システム(ロボット)を置き、
 その環境と直接的な関係の中で知能を発達させるのだ」
と言っています。


●浜辺のアリ
「複雑な振る舞いというのは、
 必ずしも、複雑な制御をしているということではない」
というのも、ブルックスの主張です。

有名な例え話があります。
浜辺を1匹のアリが歩いています
(ヘンなシチュエーションですが)。
アリは波にさらわれないように、
波打ち際に沿って歩きますから、
遠くから見ているとアリの歩いた軌跡は
とても複雑なものに見えます。
しかし、それはアリが
複雑な判断や推論や行動をしているためではなく、
地形つまり環境が複雑なため
そう見えるだけであるという話です。

つまり単純、反射的といわれる行動でさえ、
それを起こさせる側、つまり環境が複雑なら、
それを見ている者には
その行動が複雑に見えてしまうということです。

こう考えると、我々人間の行動、
つまり高度な知能と思われているのも、
案外複雑なのは環境側であって、
知能自体は意外と単純なことなのかもしれない。
少なくとも、そういうところはあるかもしれないと
疑ってみることもできますね。

2001-08-03-FRI

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