モノポリーエッセイ

第19回目  ベルリン大会へ臨む

こんにちは。百田です。
ずいぶんとご無沙汰してしまいました。

この間、ご存じのように
岡田豊さんが新チャンピオンになられました。
(このご報告だけは前回の予告通りです)
おかげさまで、モノポリー界は大騒ぎ。
わたしもつい浮かれすぎて、連載が滞ってしまいました。
申し訳ありません。
しかし、岡田さんの快挙によりモノポリーに
再びスポットライトが当たっていることも事実です。
ぜひ、この機会に改めてモノポリーの普及に
力を入れていきたいと思います。
皆さんもぜひよろしくお願いいたします。

さて、今回からしばらくは、
糸井さんと挑戦した
1992年のベルリン大会の模様をお話しいたします。
文章だけではつまらないので
当時の写真などもできればお見せしたいと思っております。
よろしくおつき合いください。

時は、1992年。
前回のロンドン大会から早くも4年経ちました。
わたしは、この間、相当なゲーム数をこなしましたし
自分自身でも格段に強くなったと思っていましたから
このベルリン大会は相当に力が入りました。
代表を決める日本選手権も
すでに参加資格のあるわたしが勝ってしまいました。
そういうこともあって天狗になっていたといわれても
仕方がないでしょうね。
しかも、日本代表の糸井さんと
再び世界大会へ行けることになったのは心強い限りでした。

遠征メンバーは、
糸井さんと石原恒和さん(現クリーチャーズ社長)、
私、その妻と一歳半になる娘、の5人です。


百田さん親子とdarling

フランクフルトで乗り換え、長旅の末に
ようやくベルリンに入ります。
幼い娘が長くてしかも初めての飛行機旅行に
耐えられるかが一番の懸念だったのですが、
ほとんどの時間ぐっすり寝ていてくれて助かりました。

現地では早速プロモーション用写真の撮影ということで
何人かの代表と一緒に
ブランデンブルグ門に行くことになりました。


ブランデンブルグ門の前にて

ここで、あのギャリー・ピータースと
再会することになります。
彼は、今回も難関を乗り越え
アメリカ代表の座を射止めたようです。
お互いに再会を喜び会いましたが、
今回の彼はそうノーテンキではありません。
彼の今回の世界大会に賭ける意気込みのようなものを
ひしひしと感じました。
つまり、そうそうお前ばかりには勝たせないぞ、
と顔には書いてありました。
相変わらず、自己顕示欲が強いといいますか、
一人だけ、自前の「USAチャンピオン」のサッシュを
持ってきていたのは笑いました。

前回のロンドン大会の頃、
ベルリンの壁が崩壊したわけですから
この当時、まだ崩壊の名残りはたくさん残っていました。
当然、土産物屋さんでは「壁のかけら」
(何かRPGのアイテムの名前みたいですね)を
売っていました。
また、どうやら東ベルリンの
軍隊の帽子やら階級章などでしょうか、
アーミーオタクがよろこびそうなのも、
たくさんありました。

東ベルリンの街の印象は今でも強く残っています。
何から何まで「無彩色」の世界でした。
どの商店の看板を見てもまず、
3色は使っていませんでした。
あの斬新な色使いで有名なベネトンのお店でさえ
「地味」でしたからびっくりしました。
崩壊から12年経った現在では
多少資本主義に毒されたでしょうか、東ベルリンも。
またいってみたい気がします。

その東ベルリンで驚いたことがありました。
東ベルリンでは飛び抜けて高い建造物なのでしょう。
あるテレビ塔の展望レストランで昼食を取った時です。
メニューは、どでかいミートローフに
ザワークラウトが山ほど乗ったもの。
トミーさんのスタッフを含め、
日本人全員が少し食べただけで
ギブアップしてしまいました。
内心は「こんなまずいもの、食えるか!」です。

ふと、私は、隣のテーブルに目をやりました。
アメリカからのギャリー・ピータースの一行が
座っています。
次の瞬間、そのテーブルの上を見た私は
唖然としてしまいました。

我々と同じメニューであったはずなのに、
そこにはキャベツ1片すら残ってはいなかったのです。

と、いうわけで、ベルリン初日から我々は、
パワーの差を見せつけられてしまいました。
果たして、このパワー差を
日本勢は跳ね返すことができるのでしょうか。


前回のエッセイを読むのはこちら

2001-03-07-WED

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