ほぼ日・デリバリー版。

第29号 芸術でメシが食えるか。


こんにちはー!
今日はけっこう長編ですけど、
土曜にじっくり読むのに適しているかもしれないですよ。

去年9月ごろにおこなわれた、
東京芸術大学での「芸術でメシを食えるか」という
darling糸井重里による講演を、「デリバリー版」は、
独自企画として、本紙にもどこにも掲載しないままで、
メールでのみ、みなさんのもとにお届けしていたんです。
そう言えば、かなりの反響があった企画でした。

全4回ぶんにわたる配信で送っていたその特集を、
今日は、そのまま、ぜんぶお届けしちゃいますね!!!

1年経ちましたが、やはり、
「芸術でメシを食えるか」を強く考える人は、
たくさんいるわけで‥‥何かの参考になればうれしいです。

大学生の観衆の前で、質疑応答をしながら
darlingが講演をしていく、というイメージで、
読み進めてみてくださいね。







【★1・ やめられるなら、やめちゃえばいい】

(※講演会場で、
 「衣食住に関わる職業と違って、
   絵とかって、要らねえんじゃないですか?
   だから、食っていけないんじゃないっすか」
  という質問を受けての、糸井重里の返事です)

いいですねぇ。
そういう質問、待ってました。
それこそあなたのように、
「油絵って、要らなくねぇ?」
って言った人たちが、現代美術を作ったんですよね。
「そんな、今までみたいなのやるぐらいなら」
って言ってデュシャンがいてポップアートが生まれたり、
「絵も、印刷しちゃわねえ?」って言ってやっちゃったり、
いままでに何人もそういう人があらわれましたよね。

「要らないから」っていうことで、
絵とか芸術に関わることをやめたくなったら、
ぼくとしては、やめられるんだったら、
やめちゃえばいいと思っているんですよ。
「じゃあ、もうイイや」って思えるなら、
ほかの仕事をすればいい。

だけど、なんか、なかなか、
やめられないんですよねえ・・・。
その「やめられない」っていうことが
大事なんだと、ぼくは思うんですよ。

ただ、もちろん、
「要らねえ!」って言っている人を
追いかけてって売るわけにはいかないのでねぇ。
じゃあ、どうなるかというと、その時点が、
「何でみんなには絵が要らねえんだろう?」
「何で俺には絵が要るんだろう?」
「何で絵はあるんだろう?」
ということを、自分で改めて
掘り下げる時期なんだろうなぁと考えています。

油絵を居間に飾る人が少ないように、
バンドやってる子が、4畳半のアパートでは
でかいアンプを置けないように、
生活の中で、要るか要らないかでいったら、
芸術って、けっこうあぶない境界線に
あるもんだと思っています。

そんな中でも、こうして
芸術大学では、たくさんの人が
音楽や美術をやりたくてやっていますよね。
食えていく人は、ひとにぎり。
ただ、「芸術」と一般的に言われていることは、
「自分勝手」ということにとても近いと思うんです。
要するに、芸術って「俺のやりたいこと」と言いますか。

俺もやりたいんだから、
みんなもやりたいに決まっているじゃないですか。
自然と競争も高くなるし、
みんながやりたいことだから
やる場も少なくなるし、そういうことは、
当たり前だと、自分としては思っています。
つまり・・・きっと、
「仕組みについて言ってるよりは、描きたければ描け」
っていうことかもしれません。
描く動機がない時は描けないですから、
それはもう、やめちゃえばいいし。
そういうことなんじゃないですかねぇ。

「やっていけるのだろうか」という不安があるなら、
その不安は自分で解決するしかないですよ。
誰かが解決してくれたとしたら、
助けの力を借りないとできないものですから、
その人がいなくなったらもうダメですよね。
そうではなくって、何と言うか、
ひとりで生きていく力をつけた時には、
助けがきますよね。
・・・おとぎ話のようなことを
言っていますが、ほんとですよ、きっと。
「みずから助くる者を助く」ようになってるんですよ。

さっきの質問を聞いて、ぼくは、もしかしたら、
「芸術は必要ない」っていうことを、みんなが
ちょっと、早く言いすぎているような気がしました。
「役に立つか、立たないか」ということを、
狭く考えすぎているように思うんですよ。
「役に立たないもの」って、なんでしょうか?

たとえばここにたくさんの人がいますが、
いまここで、おんなじ服を配って、
これを着ろ、って言われたら、イヤですよね。
髪型だって全員おなじにされたら、イヤでしょ。
「わたしが、こうしたい、ああしたい」
って言っていることのほとんどは、
もう、きっと、ほんとに必要かどうかと言うと、
「不要」なんだと思うんです。

たとえば、いま江戸東京博物館というところで
『ポンペイ展』がやっていますが、ポンペイという町が
どれだけすごかったかというのは、食うだとかそういう
必要なところ以外の装飾性なんですよね。
ふつうの庶民の家に絵が飾ってありますし、
椅子の足が、「ネコの足」みたいに彫られているんです。
それは、いわゆる「必要」じゃないですよね。
でも、飾らなきゃ生きていけないのが、
人間なんじゃないかなあ、と感じさせられるんです。

「ポンペイ展」の監修をしていた
ローマ史研究の青柳教授という人が、
ほかの人の研究を引用しながら、美について
いろいろ話してくれたんですけれども、
(※メリー注:この青柳さんの美の話は、
  11月1日発売の「ほぼ日ブックス」
  『ポンペイに学べ』に掲載されますよー)
ネアンデルタール人の化石を発掘すると、
墓場のあったところに、かならず花粉があるそうなんです。
埋葬地のうえに必ず花粉の化石が見つかるというのは、
つまり、埋葬した死体のうえに、花をそえたのではないか、
ということなんですよ。

言語も発達していなかった時代に、
すでにネアンデルタール人は、人が死んだ時に
花をそえる心を持っていたわけです。
どういう気持ちでそえたのかはわからないけれども、
すでに、それは、「要らないもの」ですよね。
死んでしまった人に花をたむけるという、
そんなことの延長線上にぼくらがいると考えると、
「要らないもの」って、大事にしていいんじゃないかなぁ。

カップルが「今日、何食べたの?」とか、
手をつないだりとか、親がこどもの頭をなでたりとか、
ぜんぶ、必要があるかっていったら、ないんですね。
必要でないと思われていることの中に、
人が生きていることのすばらしさが、
ほとんど入っているんじゃないかと思うぐらいですもん。

ごはんを食べおわって、
「栄養になりましたー」とは言いませんよね。
「ごちそうさまでした」「おいしかった」だよね。
おいしい、は、生きていくことには必要じゃないけど、
だけど、生きていくことの中心でしょう?きっと。
楽しかった、おいしかった、きれい、好き・・・
指折り数えていくと、人が心を動かしたことの
ほとんどが、「要らないこと」についてに思えるんです。




【★2・よかったと思えることを、自分のサイズで】

(※「イトイさんは、
  これから具体的に何をするんですか?
  CMとか企業との結びつきとか?」という質問に答えて)

あなたの質問は、きっと
ぼくが何かここででかいことを言うのを
期待しているんだろうと思いますけれども、
ぼくがこれからやることは、ささやかに
「はらまき」をつくることだったりするんです。

今まさに、あみもの業界の子と組んでいる最中でして、
はらまきの見本もできあがってきているところですが、
その話を横尾忠則さんにしたりすると、
「いいなぁ、はらまきは。ぼくも作りたい!」
って言うんです。で、横尾忠則のはらまきと
ほぼ日刊イトイ新聞のはらまきを作っているという。

どんなにたくさん売れても、
それって、動くお金の多寡は知れているんです。
だけど、あみもの業界のあつまりにいる人たちは、
「あ、世の中っていうのは、動くんだ。
 これから何かできるかも」って思えますよね。
関わってくれた人の将来に、つながるかもしれない。
あるいは「商売になる」と思って
マネする人も出てくるかもしれない。
そうすると、ものが動くでしょ?

そういうふうに、たいしたことじゃないことを
絶えず動かしていくっていうことが、
ぼくのやることなんですよ。
「大きいスポンサーから何十億引き落として」
みたいなことだけを仕事だとするような時代って、
ぼくは、もう終わっていると思います。

自分のできることで、
自分のサイズでやっていったことが、
意外と大きくなる、っていうことの
連続が仕事だとぼくは思っているから、
だから逆に、毎日何かをやっていけば、
すごいことになると思いますよ。

今年じゅうに、朝日出版社という出版社と組んで、
「ほぼ日ブックス」というシリーズで、
10何冊、いっぺんに本を出すんですよ。
今日のお客さんの中には、
その編集者の人も、来てくれているんです。

まあ、本を出すっていうことは、ビジネスとしては
まったくもうからないんです、今は。
本の原価って7割ぐらいになるんですね。
そうなると、いろいろな人が
取りぶんを取りあったあとには、
本って、めちゃくちゃに売れないかぎり、
もうからないんですよ。

だけど、本という発表のメディアとしては、
本というかたちのメディアを欲しいと思う人は
いっぱいいるわけで、そこにある人が書いたものが
5000なり10000なり届いたことがあるとしたら、
「あ、本を出すことって、こんなに簡単なことなんだ」
あるいは、
「本を読むっていうことは、テレビを観るのと
 おんなじように、パラパラやってて、いいんだ」
とか、いままで本の持っていたイメージを
変えることができますよねえ。

本って、たった2兆円のマーケットだと
言われているんです。
その「たった2兆円」のマーケットを
みんなが必死になって
「こうなったら売れるんじゃないか」
と奪いあっている・・・そこだけを見ると、
まずしい産業に見えるかもしれない。
だけど、本を生産する時に関わる
周囲につどっているソフトの価値の分量は、
ものすごいですよね。

お金で取引される部分が
少ししかなかったとしても、
それで「ああ、よかった」と思ったり、
「この業界で生きていきたい」という人がいたり、
そういうものがあったとしたら、本の場合、
マーケットのサイズよりも10倍くらい
大きな価値がひそんでいると感じるんです。

そういう、
「思いの価値」のほうが、これからの時代は、
かなり大きくなるとぼくは考えているんです。
ぼくはそういう、自分のサイズで、
実際に動くものを動かしていくことを、
していきたいですね。

(※「やりたいことのある人の
   集まっているところに行きたくて、
   芸大に入ったんですけれども、
   実際に入ってみると、悩みの最中というか、
   やりたいことをやる以前の人が多い、と、
   自分も含めて感じています。
   やりたいことを実際にやっている人とは、
   どういう点が違うんでしょうか?」
  「ほぼ日のようなコンセプトのページは
   たくさんあるけど、ほぼ日みたいに
   急成長していないのは、なぜですか?」
  という、ふたつの質問に答えて)
  
やりたいことをやっている人と、
やりたいことをやる以前の悩みの人とに
違いがあるとすれば、それはたぶん、
「ほんとうにやりたい動機があるかどうか」
なんじゃないかなあ、と思いました。

みんなが嫌うヤツで言うと、
表参道で女の子から千円くらい取って
「あなたは・・・ひとりっこの花束さ」
とか紙に書いて、路上で売っている人がいるでしょ。
・・・ぼくも、そんなには好きじゃないけど、
でも、あいつはひとりでやれているじゃないですか。
はずかしいとかそういうことを乗り越えて、
もしかしたら「商売になる」と思ったかも
しれないし、動機はわからないけれども、
強い動機があったことだけは確かだよね。

ぼくのともだちの326くんについても、
同じ世界の方からしたら賛否両論あるでしょうけれども、
ぼくは、彼をすごいと思うんです。
やっぱり、すごい動機を感じるんですね。

佐賀に生まれて、福岡の道で絵を売って、
東京に出てきてマガジンハウスに
絵を売りにいって、というその途中の
「持っていく」という段階で、
見せられるぐらいの絵を
やまほど描いているわけで・・・。

とにかく、「一生懸命」なんです。
一生懸命なぶんだけ、絶えず絵を描いてる。

「人に伝えたい」と思う気持ちは、
少なくとも、人の何十倍もある人で、
どこが自分は足りていないんだろう、とか、
人に見てもらう、っていうことに関して
ものすごく敏感だし・・・彼の場合、
そこに何があるかというと、動機ですよね。

彼がエリートじゃないところにも、
いいなあと思います。
エリートの子たちって、なんか
「ボクがやるからには、
 このくらいからスタートしたいな」
ってなまじ思っちゃうから、
そこが生意気なのかもしれないですね。

ハダカになっちゃった時の自分が
どれだけのもんだっていうのをわかることは、
失恋した経験とかにもよるかもしれないです。
「アンタなんか」って言われたら、
「え?芸大だけどダメなわけ?」ってなる。
それをくりかえしていくと、
「何でもない自分」
という力が、はっきりしますよね。
恋をするといいとかいろいろ
よく言われますけど、だったら
失恋のほうがいいですよね。
・・・ぼくも何度もふられてますし。
たかがしれてるんですよ、
ハダカになった時の自分の力なんて。

上には上のあるところで勝負をしても
しょうがないので、まっぱだかになった時に
ともだちをつくれるか、とか、
まっぱだかになった時に、
「おまえに共感するよ」って言って、
耳をかたむけてくれる人がいるかどうか。
そこが、アーティストにとっての、
最初のお客さんじゃないですか?

いちばん極端な例は、
これは職業がまったく違いますけれども、
「フランシスコ・ザビエル」ですよね。
・・・もともと、間違って流れ着いちゃったわけで。

で、通訳にいたのは、
インドネシアでひろった日本人でしょ?
そこから、広めたわけじゃないですか。
俺がオランダとかにたどりついて
「あのさー。仏教はよォ・・・」
って言うことを想像すると、無理だもんな。
すごいですよ。

「ザビエルのやったこととかなんて、
 そりゃ、夢だよ」っていったらおしまいで、
ザビエルと自分の違いをふつうに考えたら、
やっぱり、不屈の闘志じゃないかなぁと思う。

ハダカになって町で演説してくれたら、
人は、5人くらいは聞いてくれますよね。
その引力は、信じたほうがいいと思うんです。
5人の中に、将来のパートナーがいるかも
しれないじゃないですか。
それに少なくとも、今は、
いちからハダカで演説するよりは、
いろいろなことが、もっと簡単にできますもん。

「ほぼ日」が、どうしてほかと違うのか、と言えば、
ほかと違う点は、それはぼくが、
「退路を断っちゃっている」ところかもしれません。
退路を断たないままだと、
ここまで一生懸命やる必要もないわけですよ。
そこが、いちばん違うのかなぁ。

あとは、言いにくいけど「努力」でしょうか。
・・・努力は、効きますよぉ。
人より余計に寝ないでやるとかだけど。

でも、その努力をやりすぎると
ダメになるというのを自分に言いながらだから、
けっこう、バランスがむつかしいんですよね。
努力ばっかりやりすぎると、
「要らないものが、大事なんです」っていう、
最初に言ったことと矛盾しちゃうから。

努力ばかりになって、
自分の身を投げ出しつづけていると、
花を愛でることが、できなくなるんですよ。
この矛盾の中で揺れ動いているのが、
ぼくのやりかたなのかなと思います。

24時間体制で、動機と努力だけで
ぜんぶの生活を動かしていると、
他人が、ふにゃふにゃした楽しみを
味わおうとしていることに対しての思いやりが、
なくなっちゃうんです。

そうなっちゃう自分がイヤなので、
できるだけ、だらしのないヤツに対しても、
「そりゃ、そうだよ」みたいに
思うしかないかなあ、という感じかなぁ。




【★3・ひとりでやらない表現】

(※「わたしは邦楽をやっています。
   ひとりでは演奏しない楽器なので、
   いつもおおぜいで演奏をするんですけど、
   数人の中で飛び出さないように演奏していると、
   絵を描いたりしてる人のように、
   『自分を表現すること』には
   なっていないんでしょうか?」という問いを受けて)
 
きっと、あなたとおなじような
立場の人は、いっぱいいると思います。
芸術の世界でも、そうじゃなくても。

たとえば、映画みたいに
おおぜいでやる仕事でも、そうですよね。
照明さんは、「こっち明るくして」って言われるし
カメラも、カメラディレクターがいて、
カメラマンがいる、みたいな。

おおじかけになっていくにつれて
自分のやていることの意味っていうのが
いわゆる昔から言われている「自己表現」とは
違ってきていると思うんです。

きっと、あなたはいま、ほかの楽器と一緒に
コンボを組んでいらっしゃるんですよね。
そこでいま「じゃあ、自己表現って何?」と
考えていると思うんですけど、もしかしたら、
その、自己表現っていう言葉じたいに、
強くとらわれているんじゃないでしょうか。

やっていてイヤだったら
もうやめているわけで、
呼吸をあわせるだとか、
相手の音色を「いいなぁ」と思いながら、
「でも、わたしの音も聴いてね」みたいな、
その気持ちは、きっと、あるんでしょうね。

その「楽しさ」っていうところに
自分の意識を向けたほうが、
おんなじことをやっていても
わかりやすくなるような気がするんですね。

どうしても、
学校の勉強として演奏とかがあると、
自己表現とかも学んじゃうものだから、
ボディとあたまが分裂しちゃうと思うんですよ。
それは、分裂している時には、
からだに従ったほうが、
単純にいいと思うんです。

あたまのほうは、
あとで整理しただけのことですから。
言葉がない時に「右」「左」って
区別がつかなくても、あっちにいったり
こっちにいったりの場所はありますから、
生きていけましたよね。
ぼくとしては、そっちの
「わからなくても生きていけるほう」に、
従っちゃえばいいと思うんです。

どういうふうに、生き生きと
合奏をやっているかの例を、
積極的に知ると、安心するんじゃないですか。
ぼくは山下洋輔さんという人が大好きなんですけど、
山下さんたちが演奏しているのを見ると、
個人の勝負であり、重なった時の
共振することのよろこびも感じているし。
そういうのが、現場で、目で見えたりするんですよ。
音だけじゃなくて、
目で見えたりするのがおもしろいです。

山下さんは、演奏をつづけていて、
途中に病気になった時に
楽理(音楽理論)のほうを徹底的に勉強したそうです。
ずうっと演奏をしたあとに、
演奏家としての自分を、あとから
もう一回獲得しなおした人なんです。

一回、楽理のほうで
袋小路に行っちゃって、そこから、
「どうやったら自分が音楽を
 やっていく理由がわかるだろう?」
みたいな時代があってから、
「演奏できるよろこび」みたいなものに
自分をシフトしていった時に
山下さんに見えてきたものがあったんだと
ぼくは彼のファンとして思うんです。

ぼくは、歌舞伎を観る時とかに
邦楽に接するけど、やっぱり、
「横の人たちとたのしみあっている」
みたいな印象が、すごくあるんですね。
ぼくは素人だからデタラメに思っているだけだけど、
歌舞伎座で、楽器の人たちが、お客さんから
見えない時と見える時があるじゃないですか。
あれ、見えてる時と見えない時とは、
きっと顔が違うんだろうなぁ、と思っていました。

お客さんに顔が見えている時は
遠慮しているだろうけど、見えない時には
気持ち的には、雑談しているかのように
演奏するんじゃないかなぁ、と
思える時があるんです。
それは、芸術表現とかそういうのを超えて、
「音を出して、
 ちゃかぽこやってるのは、たのしいわぁ」
「ここんとこ、せつないわぁ」
みたいな楽しさに見えるんですね。

方言に近いような・・・
「楽しいです」というんじゃなくて、
「楽しいわぁ!」って関西弁で言うような、
おたがいがつながりあっているよろこびっていうか、
「この場で演らせてもらって、
 みなさん、よろこんではるで、ほんまにぃ!」
みたいな。
ああいう楽しさっていうのは、
演奏する人には、こたえられないんじゃないかなあ、
とぼくは感じるんですね。
「今日ははやく終えて、飲みにいきたいわぁ」
みたいに思うところも含めて、楽しいことじゃない?

どう高度にするか、とか、
賞を獲るに値する、とかいう
インテリの審査の基準にあわせて
ものごとをとらえるよりは、
「楽しいなぁ」って言いながら、
そこにいてくれている人を巻き込んで、
自分もそこに巻き込まれて、
「それで、おまんま食えたら最高やで」
みたいな、このよろこびって、
なにものにも変えがたいと、ぼくは思う。
単純に言うと「楽しさが、先」ってことかなぁ。

(※「コピーライターの表現には、制限がありますよね。
   制限っていうのは、ある意味で
   創作のエネルギーになるかもしれないですが、
   イトイさんとしては、
   コピーライターという職業に
   限界を感じたからこそ、
   いま、別の表現してるんですか?」
  という質問に答えて)

ぼくが、「コピーライター」という職業に
限界を感じているかと言うと、そんなことはありません。
たとえばほかの仕事で、自動車のデザイナーさんとか
だったりしても、「制限のかたまり」ですよね。
走らないといけないし、とか。
でも、やりがいはあると思うんです。

もちろん、つまらないところで
何かが勝手に決定されていくとしたら、
すごい限界を感じるだろうとは思います。
「クルマの前のライトの位置は、
 人々のアンケートからすると、
 ここにこうつけたほうがいい」
とか言われたら、デザイナーさんだって、
「何だよ!」と思うでしょ。たぶん、
そんなことばっかりになったら、
自分の仕事の場がなくなった、ということで
その場を去るということには、なると思います。

ただ、ぼくの思うコピーライターって、
いろいろなありかたができるので、
たとえば、ともだちの本に
タイトルをつけるのだって、そうでしょ?
好きなかたちで好きなように
自分の技能が生かせれば、楽しい。

自分のいる場に応じていると思います。
「サッカーのルールがイヤだから
 サッカーがイヤ」なわけじゃないでしょ。
「そのチームの監督のフォーメーションで、
 監督の出してくる指示がイヤ」と
思う時に、試合をやりたくないみたいなもんです。
だから、ルールがあること自体は、イヤじゃないです。
決定のしかたがつまらない場合には
仕事をやめればいいだけのことで、
と思ってやってますけど。

学生の時ってたぶんそうだと思いますが、
「こういうことって、こうなんだろうか?」
と、すごく早い結論を出そうとしますよね。
コピーライターという存在がいいとか
わるいとかいうよりも、仕事のひとつひとつで
ぜんぶありかたが違っているんじゃないでしょうか。

経験っていうものが
もし役に立つとすればそこで、
「このケースでは、こうだった」
「あのケースでは、ああだった」とか、
ぜんぶが違ってくるので、そこはもしかしたら
経験についての話を知る機会を増やしたら、
もっと、考えることがおもしろくなるかもしれないです。

いま、ユニクロの社長の柳井さんを
インタビューした本を、「ほぼ日ブックス」という
シリーズの1冊として出そうとしているんだけど、
「ユニクロって、
 どういうビジネススタイルを持っている」
とかいうことについては、
いっぱい、経済雑誌に書いてあるわけですね。
ですから、それを改めて聞いても、
ぜんぜんおもしろくない。

だけど、ユニクロの社長は
ふだん何を考えているんだろう?
学生時代は、どんなだったんだろう?
どう考えてどういう経験をしてきて、
いまのユニクロがあるんだろう?
・・・そうやって聞いてみると、
経済誌から得たイメージで思うユニクロよりも、
おもしろい企業だったり、するんですね。

そういう、経験にまつわる本を、
現在、いっぱい準備している途中なんです。
ユニクロの社長に何を聞く?ってなると、
「このビジネスモデルは海外に出た時、どう?」
とか、そんな質問を持っていきがちですけど、
そういうふうに聞いてしまえば、質問者も
答える柳井さんも、おたがいが、
おおやけの会社の公式発表の交換にしか
ならないんです。

わざわざ、おんなじ場所に
身を置いて話しあっているのに、
そんな固い記者会見みたいになっちゃったら、
つまんないんですよ。

「ユニクロの柳井正社長」っていうのを
経済誌から集めた情報だけで見ると、
ものすごい合理主義で、仕事のことだけを
毎日考えている、ビジネスの鬼みたいに
思っちゃいがちなんですけど、
よーく聞いてみると、ぼーっとしているの。

でも逆に、その「ぼーっとしていること」が
原点になって「現在」がある、と考えると、
生身で聞いているなかで
聞きたいことが、増えてくるんです。
その場でしか起らないことを
どう掴んで、人に伝えられるかなあ、
っていうことを、ぼくは今度の本のシリーズで
くりかえしやっていきたいと思っているんです。
それが、「経験をばらまく」ってことに
なるんだろうなぁ、と考えています。

公式がいっぱい書いてある本があっても、
もう、出すぎているから、
あんまり読みたくないじゃないですか。
それよりも、
「この人はこういう時に、こう苦労してきたんだ」とか、
「この時にこう間違えたからこそ、
 あとでこうやって立ち直れたんだ」みたいなのが、
ぼくだったら、読みたいなあと思うんです。
そんな経験を分かちあえるような
シリーズの本が出たり、そういうメディアに
「ほぼ日刊イトイ新聞」というものがなったりすれば、
いいなあと思っているんです。
「なんかの体験のばらまき」をしたいと言いますか。
・・・率直な質問を、どうもありがとう。




【★4・たいしたもんじゃない】

(※「芸大の卒業生です。
   彫刻を勉強しましたが、
   いまは陶芸を仕事にしています。
   在学中、先生は表現については
   いろいろ教えてくれたんですけど、
   売ることはぜんぜん教えてくれないんです。
   ぼくは、芸術家とインターネットの関わりに
   可能性を感じていますが、
   イトイさんは、芸術家がインターネットで
   ものを売ることについて、どう思いますか?」
   という質問を受けて)

いまのままだと、直接売ることは
そんなに簡単なことではないと思います。
ただ、「こういう人がいる」とか、
「こういう人がこういう考えを持っている」
ということを表現するためには、
インターネットということでも、
チラシをまく以上の効果は充分にあると思います。

すでに、可能性はあるんだと思います。

売るということだけを独自に取り上げて
考えることって、そうとうむつかしいです。
芸術家とか表現を仕事にしている人が
売るということを得意にしていないことは、
もう目に見えてわかっているわけですから、
売ることの得意な人と、
どうジョイントしていくかっていうことが、
これからの大きな課題になると思うんです。

自分で描いた絵が、
倉庫の中でずっと眠っているままなら、
それは表現活動としては完成されていないわけです。
音楽で言えば、自分の演奏や歌が、
ひとりぶんのCDになって自分の家に
置いてあるのと、おんなじで。
それでは意味がないと思うんです。

どうやって伝えていくかっていう
その方法について教える人が
いなかった理由については、ほんとに単純で、
伝える力のない人が先生をやっていたからですよね。
皮肉な言いかたじゃなくて、
そういうふうにできてきたので、
しょうがないんですよ。

むやみに「芸術」という言葉で
神格化されていて、聖職のようにとらえたり、
尊い仕事のように思われてきたものですが、いまはもう、
意味が変わってきているんじゃないでしょうか。
冒頭に言いましたように、すでに、
ポップアートの人たちが
「違うんじゃないの?」って表現を、
何度もやってきているわけですよね。
その「違うんじゃないの?」が商売になったり、
そういう歴史の中に、すでに
学ぶことがたくさんあるとぼくは感じます。

これからの可能性について、
本気で考えるとしたら、
すでに卒業をされているから、
重要なのは「自分がどう生きていくか」
っていうことを考えるのが前提ですよね。

そこのところで、
芸術家が生きる道っていうのは、
自分の生きていく道を探しながら、
「俺のやっているこれは、違うな」とか
「俺の生きていく道は、食いたりないな」とか、
「あ、ここはいいな」とか、
自分と照らしあわせて、アーティストとしての
生きていく道を考えていけば、また
見えてくるものが多くなるように思いました。

「なんかいいなあ」と思えば、
それをやればいいし。
答えは、出やしないと思うんです。
あなたも、いまやっている陶芸のほうが
おもしろくなるかもしれなくて、
そこはどうなるかわからないですよね。

あなたが陶芸で作った
商品としての作品が、誰かの心に
ぎゅっと残って大事にされるとしたら、
もしかしたら、
彫刻をつくって市に買われたりするよりも
ずっとうれしいし意味があるかもしれない。

そんなようなことも含めて、
これから経験していくことでしょうから、
それぞれの道で考えることと、
アーティストがどう生きて食っていくか、
っていうことを、平行して考える必要が
あるんじゃないかなあ、とぼくは感じました。

ですから、純粋な研究として
「芸術家がどう生きていくか」っていうのは、
それは、これからの時代には、
あんまりなりたたないんじゃないかと思います。

この会場には、学生の人も来てくださったし、
先生もいらっしゃるかもしれないし、
父兄もいらっしゃるし、ぼくもいるけど、
みんな、たいしたことないですよ。
たいしたもんじゃないどうしが、
何かやりたいって言ってぶつかった時に出てくる
「こと」のほうがおもしろいと思うんです。

「ひと」だとか「もの」っていうのは、
たぶん、たいしたことがないですよ。

「ひと」や「もの」が動いて、
時間軸のなかで起こってくる「こと」が
おもしろいのですから、
たいしたことがないものどうしが、
「ヨーイ、ドン」って走っていくような、
そんなイメージを、ぼくは持っています。






こんな感じの、講演会でした。
あなたは、いま読んで、何を思いましたか?
ご意見をきかせていただけるとうれしいです。

では、また、明日のこのコーナーでお会いしましょう!
お相手は、毎回毎回ですが、
「ほぼ日デリバリー版」番の、わたくしメリー木村でした!

デリバリー版への激励や感想などは、
メールの表題に「ほぼ日デリバリー版」と書いて
postman@1101.comに送ってください。

2002-11-16-SAT

HOME
戻る