Yeah!Yeah!Yeah!
マイクロソフトの
古川会長がやってきた。



2回分を連続してお届けしてきましたが、
考えてみたら、そんなに短い連載じゃ終わらないんだ。
まだまだ、続くのだとしたら、
おおよそのあらすじ的なことを、
ちょっとここに記しておいた方が便利ですよね。

今回は、古川さんという人が、
どんなふうに出来ていったかを、
自分の口から語るという感じ、かな?
よく言えば「おちこぼれ」、
悪く言えば‥‥「おちこぼれ」だったんですね。


古川 駿台(予備校)に3年、というところから、
もう外してるんですよ(笑)。
駿台っていうのはやはり、魔の場所で、
あそこで真面目に受験勉強せずに、坂下まで降りていって
「人生劇場」でパチンコして、
安部公房と大江健三郎の全集を全部集めるとか、
「箱男」の初演を観に行くとか、
つかこうへいの「熱海殺人事件」の初演を観にいくとか。
糸井 僕もだいたい似たようなことしてましたね(笑)。
古川 でも糸井さんとちょっと違うのは、
秋葉原に電気街にも足を運んでたことじゃないかなあ。
神田の古本街、お茶の水で少し勉強する素振りを見せながら
坂の下へ行って、そのまま途中で交通博物館に行って。
だからあのトライアングルを歩いてると
自分の人生も満たされていくんですね(笑)。
糸井 景色が分かった(笑)。
見えた見えた。
古川 あの周囲に自分のアイデンティティーがありますね(笑)。
糸井 神田古本街は、おおげさに言うと「心」ですよね。
パチンコ屋は「遊び」ですよね。
交通博物館は「足」ですよね。
秋葉原の電気街は「大脳」ですよね。
これでトータルに古川完成(笑)!
古川 実は自分のやりたかったのは心の問題だとか
精神分析だとか、そういった分野だったんです。
当時、その分野を真面目にやっている大学は
一橋大学と大阪大学と和光大学の
3つくらいしかなかったんです。
糸井 岸田秀さんがいる和光ですよね。
古川 岸田さんの隣に、服部研究室というのがあって、
そこへ最終的に入ったんですけれど。
和光に行ってこのまま就職したら
何やって飯食っていくのかなと思ったときがあったんです。
うちの兄貴は東大出て弁護士になって
「それに比べて弟さんは・・・」
なんて周りに言われながら、その状態のなかで
「待てよ」
と思って……。
当時秋葉原をうろうろしていたときに
Apple-IIというマシンが、あったんですね。
マッキントッシュの前のもので当時78万円したんですよ。
それが今あるものの機能で言うと、
ファミコンのなかに入っているのと同じ構成ですね。
初代のファミコン、エンジとクリームのコンビの、
だいたいあれと同じ程度。

そのApple-IIが、アメリカの
サンノゼで開催されていた
「ウエストコーストコンピュータ・フェア」、
そこに出展されたんです。
見学に行った僕が、そこで
バコーンと頭を殴られたような
衝撃を受けたんですね。
それまでマイコンチップっていう概念はあったけれども、
メディアとして、
文化として使うパーソナルコンピュータ
という概念が初めて目の前で生まれたわけで、
それがその1978年のショーで展示されたんですよ。

会場に出展しているソフトメーカーに話を聞いたら
高校生が社長で会社をやってて、
お父さんが会長だっていうじゃないですか。
それこそゴザ並べて物売って
ソフトハウスを始めているとかね。
そういうのが、いっぱいいたんです。
それと会場に行ってびっくりしたのは、
乳母車を押した人が来ていたり、
おじいちゃんや女性がいるんですね。
その当時日本で「コンピュータをやってる」って言ったら
よっぽどの変人か、ガリガリの技術者か
神がかった人たちしかいなかったんで、
“生活のなかで、コンピュータを
道具として使おうとしている人間がいる”
っていうのを見て、開眼してしまったんです。
「これは、一度こちらで体験しなければ、ダメだ」と。
日本の狭い範囲のなかでコンピュータを見てることが、
アメリカでコンピュータが生まれるのを目の前にして、
あまりにも開きがあることのように感じたんです。

当時、若かった僕らも、メインフレームの、
IBMとかインパクトだとかCDCなどは
権威の象徴であると思っていたから。
許せんという気持ちで
カリカリしていた時期はあったんです。
でも実際知れば知るほど、
それを否定してかかってはだめで
古いものでも良いものはどんどん使えばいいし、
お互いが存在しているところに、
現実の自分のアイデンティティーがあるんだと
思えるようになってくるわけです。。

あれはあたかも、青臭いときに母親や父親に
抱く反抗と同じなんですよね。
さっきのアイデンティティーの話に戻れば、
男として、女としてというのにこだわる人って、
個としてのアイデンティティーが
薄っぺらい人ばっかりですよね。
そして、まさしくまだ自分自身が
何ものか分からなかった当時は、
「俺はマイコン、パソコンを知ってるんだ」って。
アンチメインフレーム(大型コンピュータ)なんだぞ、と。
僕も薄っぺらかったから。

ところが、その後に、いいものはいいと思うし。
お互い、全然違ったアプローチをしても、
「自分のよさを主張しつつ、
相手のよさも認められなかったら
きっとその主張自体が無意味だな」
と思って。
絶対的にそれを思ったのは、UNIXをやったときで。
僕の見たUNIXの人たちって
自己の主張をしてお互いをけなすことで、
自分のアイデンティティーを
保っていたんですよ。
それはあまりにもみっともないと。

これから最終的にインターネットの世界でも、
お互いをけなすんじゃなくて
いいものがどんどん出てきて、
お互いがお互いの存在を認められなかったら
忘れ去られるしかないみたいな、
そういうギリギリのところでやっていくと思いますからね。
まぁ、あのころも、
そんななかで自分自身がパソコンに漬かっちゃった
っていうか、入り込んだっていうことなのかなあ。
糸井 つまり青春時代のシンボルとして
パソコンが最初はあったわけですね。
古川 そうです。
それと「いいもの真っ先に欲しい」というときは
我慢できないたちだから、ということですかね。

僕は日本の初代Macユーザーで、
購入順位はきっと5番以内に入ってるんです(笑)。
日本に入って来る前に「たまらん」と言って
アメリカで買ってきたんでね。
それを含めて自分で懐を痛めて買ってますからね、
自分の惚れたマシンを。
以前アップル・ジャパン社長の原田さんと坂本龍一さんと
対談をしたときに、僕が
「いいものを認めるためには自分で懐痛めて、
 会社の金で買うんじゃなくてね、
 やっぱり自分の懐を痛めてでも買わなきゃね」
なんて話をしたんです。
「僕は日本で懐を痛めて買ったMacの5番以内の
 ユーザーに入ってるんだ」
って話をしたら、原田さんは
「俺なんて懐痛めて買ったことなんかないもんね」
なんて言ったもんだから(笑)。
その瞬間に坂本龍一さんは
「俺なんか18台も買って後悔してるよ。
 もう2度と買わない」って(笑)。
「愛情感じてない人が作ったり販売したらイカン!」
とまで原田さんに言ったりして(笑)。
いやべつに僕は原田さんを嫌いじゃないんだけどね。
でも、原田さんの愛情の注ぎ方って
マーケティング主体だからモノに対する愛着だとか、
コンセプトを理解する理解ということではないんですね。
よく対談のなかで笑い話にしてるのは、原田さんが
「マッキントッシュユーザーがたくさんいるなかで
 MacOS8以降のOSのアーキテクチャに関しては
 古川さんのほうが詳しいからそっちから説明してくれ」
って(笑)言った話。
社長がそれ言っちゃいかんだろ、みたいな(笑)。
糸井 最初の機械が五指以内に入るって相手に言われたら、
張り合って生意気言うよりは、
「1台も買ったことない」
って言ったほうがかっこいいですね(笑)。
いっそね。
古川 「ずっとマイクロソフトはMacと対決してきた、
 ぶつかってきた」
と考える人がいるんだけれど、
Macがデビューした当初から、
いや、その前からそうなんですけど、
実はApple-IIのなかにボードを差して、
その当時のワープロだとか表計算が動くように
アプリケーションを出荷してたのはマイクロソフトだし、
その当時ワードスターだとかスーパーカルクっていうのが
あったんですが、それがApple-IIのなかで動くように
80カラムも文字が出るようなカードを入れるようなことで
大ヒットもしたんです。

Apple-IIが初めてビジネスにも使えるってことを
証明したのはマイクロソフトだったし、
その次のステージではMacが白黒で出てきた瞬間に、
今までのマルチプランではなくて、
エクセルっていう新しい表計算プロダクツが
マッキントッシュの機能を100%理解して、
そのユーザーインターフェイス機能を
ほとんど使い切ったソフトでデビューを飾る、
ということもあったしね。
最近では
「オフィス98のアップデートを
 ようやく出してくれてるのね」とか言われるけど。
そういう話じゃなくて、
Macがデビューした当時から
Macの世界を確立するために
アプリケーションの立場からそれを支援してきた技術は
マイクロソフトには、ずっとあったんです。

それは付かず離れずっていう意味から言うと、
ビル・ゲイツがスティーブ・ジョブズと
非常に仲がよかったり、
何かで仲違いして2〜3年通わなかったりとかね、
そういうことは事実としてあるけれども、
1度としてプロダクツを作るのをやめたり、
喧嘩をしたという状況は過去なかった。

そういう意味ではOSとしてのプラットフォームを
どう築くかということに関しては、
お互いに意見の差なんかはあるけどれも、
たとえば共通のデータが取り扱えるようにしようとか、
絵が出て音が出て
文字が映って、その文字が正しく画面に表示されて、
共通のアプリケーションはどちらでも動くという感覚を
作っていく努力とかはしてるんです。
つまり、自分たちが作ったアプリケーションを
マッキントッシュのうえでも提供することは
自分たちは切れ目なしにずっとやってきたんです。
糸井 詳しい人は知ってるでしょうけど、
僕なんかは知らないですよね、そういうことは。
古川 マッキントッシュの仮想敵国としての
アンチ・マイクロソフトというものが、どこかで
自分たちのアイデンティティーそのものを全部固める
一つの規範になってしまった瞬間って、
いつの間にか、きっとどっかであったんでしょうね。
糸井 あったんでしょうね。
ある種、殉教者の快感みたいなのがだんだん
出てきちゃうから、そういう意味では何の関係もないのに、
殉教者気分のほうがちょっとかっこよく見えるんですよね。
その意味で(マイクロソフトは)損してますね。
古川 坂本龍一さんなんかもウインドウズ95のイベントで
最初お会いしたときに、
「一度会ったけど途中でやっぱりやめようって言わないと
 Macの人たちに『裏切り者坂本』って呼ばれちゃう」
なんて言ってました。
だからしばらく、メールの書き込みなんかに
「裏切り者坂本」なんて
呼ばれている瞬間もあったかもしれない。
糸井 それは損ですよね、どっちもがね。
それは制服の話とおなじですよね、本当にね。
古川 だから自分が
「こちらのほうがいい、好きだ」と主張することと、
全然別の次元で別のものに対して遅れている人間を
否定してかかるっていうのは……。
また、それをもってして自分が正しいと主張するのは、
少し歪んだ構造だという気がします。
インターネットの場合には全く即さないでしょうしね。
全体主義的に、ひとつの思想じゃないと
組織に混ぜてもらえないっていう状態を、
もしマイクロソフトが作ろうとしてるんだったら、
それに対して力をもって反発してもらっても
いいんだろうし。
むしろ逆に自分も相手の美しさも認められ、
その存在を承認というか、
認識、認知できるという状態にならない限りは、
自分の本当にいいところを主張しきれないと思いますね。
糸井 僕らでも根拠なく考えてた部分っていうのと、
よく聞いてみたら「ああこういうことか」
っていう部分とのあいだに、
実はそんなに大きな開きはなかったような
気がするんですよ。
まあ、普通に見てたら分かるようなことなんだけれど。
どうしても、どっちかに重心かけてないといけない
というような気分があるものなのでしょうね、やっぱり。
古川 プロレスでその場をもり立てるために
凶器攻撃しているレスラーみたいに取り扱われてた。
まあ「本当は違うんだけどな」みたいな部分でね。

(つづく)

1998-09-27-MON

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