Yeah!Yeah!Yeah!
マイクロソフトの
古川会長がやってきた。


古川 僕らがちょうど中学高校を生きてきたころの
仮想敵国って何かっていうと、
アメリカ帝国主義とか
安保だとか沖縄の問題だったわけです。
そういうものが色々、
目の前を通り過ぎていったわけですよ。

そのころは自分たちが怒りをぶつける先というのが
すごくハッキリしていたのですよ。
それが、今の人たちには
なくなってきてしまったと思うのです。
僕らは、たとえば父親の権力に対する反発だとか、
教育システムに対する反発だとか、
沖縄だとか安保だとか、
そういうものが目の前にありながら、
それに対して勘違いかもしれないけれど、
とにかく怒りをぶつけていた。

ところが今はぶつける相手、怒りをぶつける矛先がない。
仮想敵国が、アメリカでもロシアでも
なくなってしまった時代には、
「ひょっとしたらマイクロソフトを敵として考えたら
面白いんじゃないか」、
とマスコミに煽られた瞬間に、
マイクロソフトのイメージなり、
ビル・ゲイツのイメージが作られてしまった
という部分はあると思うんです。
ちょっと、話の視点を変えて
なんで僕らがパソコンを始めたか、というと。

糸井 それ聞きたいんですよね!
古川 僕の中学高校ってすごく受験校だったから、
90人東大行って200人早稲田、慶応
っていう人のなかで30人くらいが
落ちこぼれるんですよ。
大学卒業してない僕なんて落ちこぼれですよ。
他にも新宿のゲイバーのママをやっているやつもいるし、
将棋打っているやつもいるんですよ。
そうするとスポーツや演劇をやったり
ソフトウエア産業なんか行ったやつは
「頭おかしいんじゃないの?」
なんて言われるわけですよ。
やっぱりよい子は東大に行き、
司法試験を受けるか上級国家公務員になるか、
商社か、それこそ銀行に行くのが権威の象徴だと。
僕らの世代っていうのは、ある意味そういう幻想を
壊してしまったという、
そこが原点なんですよ。

高校のときに文化祭があって、
そのときにいわゆる紛争がありまして、
ロックアウトしたんです。
中学高校をとにかく機動隊に全部占拠されて
自分たちは外に押し出されて、学校は封鎖されて
あと3日ロックアウトが続いていたら、
中学生まで全員留年だったっていう状況にいたんです。
糸井 それは、なんていう中学校だったんですか?
古川 麻布中学です。
僕らは(当時)90周年にあたるまで、
制服を着せられて、
教育者は僕たち全員を管理しようとした。
新しく、ルールでもなかったものがルールとして
押し付けられるのは、僕らはゴメンだと反発したんです。
そのころは、あらゆる中学や高校が
“制服を脱いで自由にしたい”
という運動をやっていたんです。
僕らは財政的に豊かではないけれど、
「制服を着るも着ないにしても僕らに任せてよ」
と言ってたんですね。
今は制服がなくなっちゃったんで、
標準服と呼んで制服を着ている生徒もいれば、
茶髪にTシャツで
耳に3つくらいピアスをしている生徒もいる。

人間は弾力性が非常にあるから、
一定のルールの下で組織に帰属して
昔からの伝統、慣習にのっとった形で
そのルールにしたがって生きている人もいるけれども、
そのとなりでTシャツにジーパン、茶髪の人間も
一緒の箱に入れて同じ授業を受けても
クラブ活動をしても違和感ない、という状態を
90年の伝統がある中学のなかで
初めて作ったんですよね。

ある人たちは
「全てのルールは自分たちが作る。
 過去のルールは全て排除して制服は廃止した」
という形をとったけれど、
僕たちは違ったんです。
「こっちの方がかっこいいじゃない」
と思った論理は、
伝統を重んじる人間の場合は、それを着ることに
アイデンティティを求めている場合もあるから、
「その人間の夢を壊しちゃいかん」
ということなんですね。
それに毎日私服で来たら
財政的にきつい人間もいるかもしれないので、
そういう人は週末だけ私服で来ようとかね。
その家庭と本人の意思で自由に選択すれば
いいわけですからね。

なぜ今、その話から始めたかというと、
ある意味で制服みたいなものは、
“大型コンピュータから来た権威”なんです。
それをそのまま受け入れるもいいけれど、
僕らはパソコンの世界という私服な世界が
あったわけなんですよね。
あのころいろいろやってた人たちって、
“全てを否定して、新しいものが善である”
というやり方で制服を廃止してしまった。
そういうムーブメントもあったんだけれども、僕らは
「すでに存在しているものもそれもまたひとつの
 一員として残しておくことに価値があるんじゃない?」
というふうに考えてたんですよね。

こんど逆に、大型コンピュータの時代に行ったときに、
パソコンの創成期というのは、
「パソコンが全て世の中を変える。
 だからメインフレームは悪だ」
という発想を持った人たちもいて、そのたびに
非常に攻撃的に、たとえばUNIXのある人たちなんかは
「自分たちは善で、その他の人たちは全て邪悪なもの」
として主張してるんですからね。
僕らは、周りにいる全然別のロジックで作り上げた
別のものも美しいものだし、
自分は自分で別の美しいものを作るから、
全然噛みあうところがないんだけれど、
相互にその存在を認めるっていうのが自然だと思ったから、
UNIXもメインフレームも、パソコンも
相互に存在してその各々が存在することの価値と
その必然性とその比率が徐々に変わって、
マスが広がっていくことに価値を見いだそう
という姿勢で僕はパソコンに賭けてみたのですよ。
糸井 それは何歳くらいですか?
古川 21、2歳かなあ。
糸井 最初にパソコンに触ったときっていうのは
どんな気分だったんですか?
古川 最初はテレビゲームの画面にテニスのラケットが出てきて
ボールがパーン、パーン、と飛ぶやつがあったんですね。
あれをチップで買ってきて、ハンダ付けで組み立てる。
チップが4000円くらいで、
完成品が3、4万円したから
週末になると2、3個組み立てて、近所に売ったりする。
そうすると2万円ずつくらい
お小遣いが入ったんです(笑)。

そこで考えたんです。
「待てよ、このまま小金を集めて何しようか」とね。
そうしたら目の前にマイコンチップがあって、
それを使ってパーソナルコンピュータを
自分で組み立ててみようじゃないか、と。
当時、8Kバイトのメモリが入った8ビットのCPUで、
パソコン画面に白黒のテキストの文字しか
映らないような状態でBASIC言語が
動く感じでしたから。
全部で180万円くらいしたんですよ。
これはとても買えないやと思って雑誌を見ていたら、
アメリカでは500ドルのキットを
売ってるというじゃないですか。
包丁一本さらしに巻いて、という感じで、
ハンダゴテ1本持って、
「アメリカに武者修行に行きながら
 自分のコンピュータを組み立てたら、
 ひょっとして安く手に入るかもしれない」
と考えてアメリカに行き、買いました。
それは、中学、高校を卒業して、大学入試のために
駿台予備校に3年通った後ですね。
糸井 ハハハハ(笑)。

(つづく)

1998-09-23-THU


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