「春の鎌倉でみちくさ」編  今回の先生/森昭彦さん プロフィールはこちら
名前その50 コウボウシバ

春の鎌倉での「みちくさ」は、これで最後になります。
波の音が耳にここちよい由比ヶ浜で、
今回ラストの、みちくさの名前を覚えましょう。
砂浜の手前の、すこし丘になった場所に、
森さんが吉本さんを案内します。

この丘にもですね、
ちょっとあるんですよ、みちくさが。
吉本 どれでしょう?
なにか草みたいなのがありますけど‥‥。
そうそう、これなんです。
このあたりをずっとマット状におおってますよね。
吉本 はい。
これはなんていうんですか?
コウボウシバといいます。
吉本 コウボウシバ。
へえー、芝なんだ。
芝という名前ですけど、スゲの仲間なんです。
吉本 スゲの仲間。
スゲ属の植物ですね。
これがマニアックなファンも多くて。
吉本 マニアックなんですね、スゲは(笑)。
そう、独特な味わいがあって。
ほら、見えますか?
この真ん中、ちょっと上の方に‥‥。
吉本 あ、これ?
ひゅっと長い部分があります。
これがオスの花穂なんです。
吉本 これが男の子。
女の子はどこにいるんですか?
男の子の下に。
ありますでしょう? 花穂が。
吉本 へえー、そうか。
上にのびているのが男の子、
その下にあるふわふわが女の子。
そうです。
これがやがて、ムギみたいに結実するんです。
吉本 ムギみたいに。
ええ。
ちなみにコウボウシバの「コウボウ」は、
弘法大師の弘法なんですよ。
吉本 「弘法にも筆の誤り」の弘法大師?
そうです。
コウボウムギという、
これよりちょっと大きめの植物があるんですね。
昔、そのコウボウムギの
地下に潜ってるサヤの部分を加工して、
筆を作って、ものを書いたそうです。
吉本 へえー。
それで、達筆な弘法大師にあやかって
まず、コウボウムギという名前がつけられて、
これはその小型だから、
コウボウシバという名前になったんです。
吉本 そういう由来が。
で、この人はですね、
視線を下げて見るとかわいらしいんですよ。
吉本 視線を下げる‥‥。
このくらいですか?(視線を下げる)
もっと、この人たちの背丈くらいに。
吉本 (さらに視線を下げる)
‥‥あー、これ、かわいい!
すごくかわいいですよ、これ。
一所懸命、育ってますよね。
吉本 わあー、きれい。
コウボウシバのことを
そんなふうに言ってくださるかたは
たぶんあんまりいないと思います。
吉本 そうなの?
吉本さんはマニアックなのかもしれない(笑)。
吉本 そうかも(笑)、マニアックなのかも。
(笑)
吉本 ほんと、こんな海の目の前の砂浜にも、
ちゃんとみちくさはあるんですね。
ねぇ、おもしろいです。
吉本 はあーー。
これでゴール、かな?
そうですね、
由比ヶ浜に到着しましたので。
吉本 たっぷりでした。
たっぷりでしたね(笑)。
吉本 ほんとはもっとあったんだけど、
ぜんぶお話を聞いてたら
今日中に海に着かなかった(笑)。
ええ(笑)。
吉本 じゃあ、せっかくだから、
波打ち際に行ってみましょうか(移動)。
そうですね(移動)。
吉本 きもちいいー。
海に来たの、久しぶりだあ。
そうだったんですか。
吉本 うん。
いやぁ、のどかですねえ。
吉本 ほんと、のどか。
あー、いいなぁ。
吉本 たのしくなっちゃう。
子どもに戻ったみたいな気分になりますね。
吉本 海に来るとね。
はい。
吉本 絶対に、あんなことするし(笑)。
(同行したほぼ日の乗組員を指さす)
あー(笑)。
砂浜に棒でなにか書いてますね。
なにを書いてるんでしょう?
吉本 ねえ(笑)。
──いやぁ、ついに来た、春の海!
来ました。
吉本 晴れたしねー。
やったー(ちいさく拍手)。
よかったよー、いいお天気で。
きょうはほんとに、
ありがとうございました。
吉本 こちらこそ、
元気なみちくさにたくさん会えて、
いっぱい名前を教えてくださって、
ありがとうございました。
──じゃあ、ぼちぼち帰りましょうか。
そうですね。
吉本 たのしかったー。
こんなたのしいことばっかりで、
なんだか申し訳ないような‥‥。
去年までは、動物園と水族館を見て回って、
こうして植物のことまでやってるし。
バチが当たるんじゃないかと思っちゃいます。
でも吉本さんは、その経験を文章にして
みんなにわけてくださいますから。
それはたいへんですよね。
今回のエッセイもたのしみにしています。
吉本さん、いっぱい書かなくちゃ、ですね。
吉本 うん、いっぱい書かないと。
書きますよー、いっぱい書きます。

今回のみちくさは、
波の音を背中に聞きながら終了となりました。
森さん、たくさんの名前を教えてくださって、
ありがとうございました。

「春の鎌倉でみちくさ」編は、これにて終了です。
また、お会いしましょう。

 
吉本由美さんの「コウボウシバ」
 

そういえば、
この草は海に行ったとき散々目にしているのだ。
目にするけれど気にしなかったのだ。
浜辺を歩くときはいつも、
何とはなしにつま先で蹴ったり、
砂の熱さ逃れに踏みつけたりしていた。
あるいはその上にピクニックシートを広げ、
荷物を置き、
何人もで
寝転んだり食べたり飲んだりしていた。
今思えば、コウボウシバよ、
苦しかったろう、
ごめんなさい。
この小さな花穂を私はいくつ潰したのか。

知らないと、人間どんな酷いことだってしてしまう。
砂場に生えている地味な草‥‥
という認識しかないときは、
踏んでも押しつぶしても気にならなかった。
それがいったん名前を知り素性を知り性質を知ると、
もうとてもそんなことはできない。
森さんに“下から目線”と教わり蹲ったときも、
ちょっとでも踏むことなきよう気を配った。
つくづく“知る”ことの大切さを思う。
そして“下から目線”の楽しさも。
同じ位置から見る雌花穂の
むくむくぽっこりとした可愛い形。
雌ながら“岡本太郎”と呼ばせてもらおう。

13年前今の住まいに越してきたのは猫が飼えるからだった。
そしたら庭が付いていた。
小さな庭ながらクヌギ、コナラ、モミジやカエデなど
枝走りのいい庭木が6本配置され、
ベランダから続く飛び石の先には
外庭に出るための裏木戸があった。
だからどう考えても日本の庭だが、
そのときは、
いわゆる雑草と
もはやブッシュと化したマーガレットの巨大な塊と、
野生化したオリヅルラン
(不思議なことに白線なしのもあった)と
シダの生い茂る荒れ地だった。
そこをなんとかしようと思った。
日本の庭らしく再生しよう、
苔など育ててみよう、と決意。
ルーペとヘラとピンセットと、
湿らせたティッシュペーパー入りの
小さなビニール袋を持って、
苔採集の散歩に出た。

ご近所から集めた苔は、
スギゴケ、ギンゴケ、ヒジキゴケ、ホソウリゴケ。
小さな塊を庭の隅々に移植した。
そのうちどこからかゼニゴケがやって来た。
そしてそれぞれが少しずつ地道に陣地を広げていき、
およそ8年で苔庭となった。
その頃の楽しみは
飛び石に蹲って苔の世界をルーペで覗き見ることだった。
つまり、
下から目線の極地といえる苔目線になるのである。
5ミリにも満たない世界がまるでジャングルに見える。
繁殖期には雄株雌株の結婚支度が展開し、
頭のてっぺんに胞子を付けて
ふるふると結婚相手を呼び込む様子にときめいた。
密林の奥からいきなり
黒い装甲車のようなものが飛び出てきて、
仰天したらアリだった。
ミクロの世界探訪は飽きることがない。

ひたむきに生きる彼らを傷つけないよう
庭に出るときは飛び石伝い。
なのに、あるとき、
マンション敷地全体の剪定に入った
造園業者のバイトくんが、
あろうことか‥‥
苔のふわふわした上を
ぶっといゴム長靴でわしわしと歩いているのだ。
押しつぶされていく苔苔苔。
腰が抜けそうになった。
我を忘れて絶叫した。
驚くバイトくん、
数分後「見りゃわかるだろーが」と
兄貴分から叱られていた。
「育ててたんですかあ」とあやまりに来た。
たとえ育ててはいない道ばたの苔でも、
彼らの世界を知ったら踏みつけになんかできないぞ。
バイトだからしかたないけれど、
無知はデリカシーの欠如に通じる。
「結婚目前だったんだよ」と言うと、
“キモい”という顔をされた。

鎌倉の海で見たコウボウシバも結婚目前のようだった。
くれぐれも人の足には注意して、
お幸せに。

2010-06-29-TUE
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(C) HOBO NIKKAN ITOI SHINBUN