本の装丁のことなんかを
祖父江さんに訊く。

(雑誌『編集会議』の連載対談まるごと版)

第4回 「顔を出さないアートディレクターね?」


 
糸井 上の人たちが全員会社をやめて、
いきなりアートディレクターになったの?
祖父江 まだ二十代なかばですから、
アートディレクターと言うのには
ちょっと年も見た目もぼろぼろだったから、
「お前は出席をしないで、
 顔を出さないアートディレクターね?」
って、名刺だけ作ってもらって。
糸井 (笑)
顔を出しちゃいけない
アートディレクターね?
祖父江 だからぼくの考えは
編集者がにぎっていって、
「いやあ、アートディレクターが
 こう言うもんで」って。

ぼくは何か影武者みたいで。
糸井 すごい人と思われたかもしれないんだ。
祖父江 かもしれないです。
うまいぐあいに、こう、ね?
糸井 見たことないし、ねえ。
祖父江 誰も見ないわけですから。
糸井 あはははは(笑)
祖父江 で、まあ、アートディレクターとして
ほんとにちゃんとした人が必要だ、という
会社の判断で、アートディレクターの募集を打って、
それでアートディレクターが来て。

その人にぼくはいろいろ今までのことを伝えて、
で、その時に・・・やっぱり、
工作舎って、賢いじゃないですか。
学より遊びだ、とか言ってるけど、
やっぱり、賢いですよ。

でも何となく、まあ、
みんな、どこでもそうだと思うけど、
中にいるのと外にいるのと違うじゃないですか。

その時に何となく、ぼくは、
まんがだとか、くだらない歌謡曲とか、
そういうのがすごく好きになっちゃって。
糸井 また反動があるんだ。
祖父江 それで、急に本を読まなくなっちゃって。
糸井 (笑)わはははは。
祖父江 何か・・・と思っていたところで、
しりあがり寿さんが、
大学のふたつ上の先輩で、
同じ学科で。漫研の部長やってたんです。

親しくしていたんだけど。
まんがが、若い頃はアート指向が強くて、
何か、漫研とかが嫌いだったんですね。
糸井 漫研には、ちゃんと行ってたんだ?
祖父江 ええ、まあ、そうですね。
漫研ってひびきが嫌いで、
「なんだか
 つるんでる感が
 気持ち悪い」
って思っていたけど、
でもまんがは好きで、みたいな。
そう言ったらしりあがりさんが
そういう人が漫研にいないからそうなるんだ、
と言って。
糸井 なるほど。
うまいこと言うねえ。
あの人はほんとに、きれるねえ。
祖父江 そうなんですよ。
で、話がもどりますけど、
しりあがりさんから
まんがの処女本を作るから
一緒にやろうよ、って言われて。
やったあ、やりたいことは、これだよな?
とか思って。
で、会社も
新しいアートディレクターがいることだし、
やりたいこともできていることだし、
と思っていたら、こんどは
秋元康さんが出版をはじめたいということで。
糸井 へえ。
祖父江 何か共同出資で
出版の会社を作るから、
アートディレクターを探しているんだ、
って声がかかって。
あ、ということは、
芸能界とかおニャン子とかに
会えるかも、とか思って、
で、会社をやめて。
糸井 (笑)急に。
祖父江 でも、雑誌がうまくいかなくて、
それで独立して、というかフリーになって。

しりあがりさんの本をきっかけで、
まんがの依頼が徐々に入るように。
糸井 その頃最初は何をやっていたんですか?
祖父江 『いまどきのこども』
という、玖保キリコさんのもので。
糸井 中間色を使って、やってましたよね?
祖父江 はんぱな色だけを使って構成して。
糸井 あれ、祖父江さんだったんだ!
祖父江 すごい、お金かかる装丁じゃないですか。

雑誌に連載中は、
そんなには人気なかったんですよ。
糸井 そうですよ。見てる人が見てる、というような。
祖父江 まあ、これくらいだ、という部数で、
スピリッツ売り上げあがっていたから、
よーし、試しにこれ!っていって、
造本設計で、こんなの無理だよな、
とか思いながら描いたんですよ。

ここが箔だし、ビニールにくるまれるし、
本文用紙はレイド紙といって、
すかすと線が入ってるし、って。
別丁は薄い紙だけど
手作業でぜんぶこういうふうにやって、
とか、まず通らないと思っていたんですけど、
ぜんぶ通っちゃったんですよ。

「いいですよ」って。
シェー、と思って。
糸井 (笑)シェーだね、そりゃあ。
祖父江 それでそれが出たらものすごい売れちゃって。
そんで、それからもう、あといろいろ・・・。
糸井 いわば、装丁としては
メジャーデビューだよね?思えば。

何て言うの? 小さい会社で
まんがをじゃんじゃん作るという
わけではないでしょ?

(つづく)

2001-03-18-SUN

BACK
戻る