信頼の時代を語る。
山岸俊男さんの研究を学ぼう。

第3回 人類史上、99.9%が集団主義の社会だった・・・
    なぜ、西洋だけは、特殊な社会を育てたの?



(※山岸俊男さんと、darlingとの対談です。
  今回は「正直が最高の戦略である」という
  山岸さんの実験結果について、徐々に
  darlingが細かくたずねてゆくところだよ)

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山岸 私は、同世代の人たちを見ていて、
かっこいいことを言うというよりは、
いろいろなことをきちんと確かめたい、
と思います。

原理で考えるというのは、
「原理を考えるための公式」を使うのではなくて、
ほんとうに原理を使って考えることだと思う。
公式を使って考えようとした人は、
たぶん失敗してどこにも行き着けない。

何が正しい原理かはわからないんですが、
私が今使っている原理というのは、
「人間というのは、単なる適応の機械である」
「心というのは、適応の機械の特性だ」という。
これは一つの極端な考えかたですけど、
その考え方をつきつめていくと、
一体どこまで行き着けるんだろうと・・・。
論理で考えきれないところは実験でやって、
そこで行き着いたのが
「正直さ」という結論だったのですが、
自分でも、最初は実験結果を信じられなかった。
糸井 そうなんですか。
山岸 だから、面白かった。
ほんとにそんなことがあるのかなあ。
じゃあ、もう一回実験をしてみよう・・・
何回かくりかえしてもやはりそうなるから、
ようやく「やはりそうなのだ」と思えました。
糸井 ところで、
「正直が最高の戦略」という発想には、
山岸さんの側に、日本人ならではの予測が、
前提としてあったのですか?
山岸 いえ。そういうことはないです。
言い方がちょっと難しいですが、私自身としては、
文化という言葉を抹殺したいと思っているんです。
文化によって何かを説明するというのは、
おそらくいいかげんであろうと考えていまして、
「**文化」という言葉を使わなくても
同じようなことを言い得る論理を作りたいのです。

つまり、何かを予測するにしても
「日本人だから」「日本文化だから」という言葉を
使わないで何かを説明してみれば、実は、
今までとは違ったものが見えると考えています。

具体的に申しますと、
最近、オーストラリアと日本の被験者を、
コンピュータでつないで
社会的ジレンマの実験していますが、
日本人よりもオーストラリア人のほうが、
明らかに協力率が高い。
しかも、ものすごい差で。

日本人は社会に存在するしがらみから
解き放たれると、本当に協力をしない。
システムで縛られる時にのみ、協力をします。

だけど、オーストラリア人、自発的に協力する。
この結果の予測はしましたが、その予測は、
「日本文化だから」ではなくて、日本人が社会で
一つの均衡状態を作って生活をしている中での、
その均衡状態をきちんと見てから、
行動する仕方も予測してみると、
そういうことが起こる、と予め考えられるんです。
糸井 今聞いていて急に思ったんですけど、
その結果は日本が島国だからということも、
関わりがあるのですか?
山岸 いえ。島国だからというよりも、
日本的な集団主義的な生き方というのは、
人類に共通のものではないでしょうか? 
おそらく、500万年の人類の歴史において、
99%以上の社会がそのような生活だったでしょう。

私は研究をしている中で、
日本とアメリカや西欧を比べて
つくづく思ったことがあるんです。
普通は、発想としては、
「西洋がスタンダード、日本が特殊」
と、思いますよね。
でもそれはたぶん、完全に逆なんですよ。
糸井 おもしろいなあ、それ。
山岸 日本的な集団主義的な社会の作り方は、
放っておいても出てくる集団のあり方なんです。
何にも手を加えなくても、大勢が集まって
その中でうまくやっていこうとするのならば、
外部の人間を寄せ付けないようにしたり、
差別することによって集団を強めたり・・・
これは、猿も行います。

むしろ非常に不思議なのは、
「どうして西洋的な普遍主義が出てくるか?」
ということのほうなんですね。
集団の境界を重視しないやり方が、
どうして出てき得たかを考えるほうが、
私にとっては、おもしろい。
糸井 前に、古代ローマを研究している
青柳正親さんという先生と対談していた時に、
ポンペイが紀元前4世紀に、どうしてあそこまで
豊かで政治の発達した社会になったのかを聞くと、
「非常に困難な立地条件だったから」。

国の外の外敵が非常に多かったし、
微妙なバランスの階級制度もあったわけで
(生産力の源が奴隷だったことも関係する)、
つまり階級と階級の間で上手に政治をやらないと
社会が成り立たない。だから政治家が育った、と。

青柳さんをおもしろいなあと思ったのは、
「そういうめんどくさいことを
 やらなくてもいいような環境では
 政治は育っていかない」
とおっしゃっていた点です。
その話には驚いたんですけど、今の西洋の話も、
「いろいろ難しい状態だったから普遍が進化した」
ということになりますか?
山岸 たぶん、集団を作って、
その中だけで生きていくのは、
すごく簡単な生き方なんですよね。
西洋が、なぜそういうやり方をしないで
集団の境界を弱めて、効率をよくしようとするか?
・・・そこに興味があるんです。

その原因としては、基本的には
商業的な考え方から、来ると思います。
集団の中にある限界を定めて、
その中で人々を支配する人にとっては、
集団主義はむしろ都合のいいシステムなのですが、
そうやって集団の境界を定めてしまうやり方は、
商業にとっては、完全に「敵」になりますから。

そういう意味では、支配層の中に
「商業的な人がどれだけ入っていたのか」
が、とても重要なことになってくるでしょう。
例えばベネチアの貴族はみんな商人ですよね。

しかし、商業が普遍主義を作ったのだとしたら、
なぜ中国にはそういうものが興らなかったのか?
そこが、すごく不思議なんですよ。
貨幣経済の程度が違うからかな?
というような気もするのですが、
そこのところは詳しくはわかりません。
糸井 そうすると、信頼という概念は
簡単には生み出せなくて、必然性がないと
信頼というのは、もともと発生しないのですか?
山岸 それはそうだと思います。
それが私の研究の基本的な発想です。

2000-11-24-FRI

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