雑誌『編集会議』の連載対談
まるごと版。

2.田坂広志さん篇。

第4回 痛くて気持ちのいいカオス


田坂 いろんな人にとって、 一番感動したメールは、
ラブレターではないんです。
例えば、大変なトラブルシューティングがあって
疲れていて、金曜日の夜中に会社に戻ってみる。
でも、みんな帰っていて、誰もいない。
一応メールをチェックしてみたら、
一通だけ、それも、たった一行、
「部長、ご苦労さまです」。
・・・これは、じーんと来ますよ。
糸井 ああ、部長泣いちゃいますね、もう。
田坂 こんな一行でも、来るときはぐっとくる。
糸井 電話じゃあ、かけられないですね。
田坂 電話だと、おしつけがましいじゃないですか。
糸井 情の量が、多すぎるんですよね。
田坂 夜中にわざわざ電話で言ってしまうと、
「ごますり」とすれすれになってしまうから。
糸井 反応しなきゃいけないし。
田坂 手紙の文化ってすごいもので、
ふだん直接会うこともあるんですけど、
文(ふみ)の文化というか、
たった一行に言霊が凝縮して、
ずしっとくるときがあるじゃないですか
糸井 今、「ふみ」という言葉を
使われたのが、最高にいいですね。   
あれはメールでも手紙でもなく「ふみ」ですよ。
田坂 メールを見事に「ふみ」として
使うひとがいますよね。
このタイミングのメッセージだから
気持ちに来る、というような。
インターネットって以外とハイタッチなんです。
私は、対面の幻想をやめろとよく言うんです。
「直接オフラインで会うほうがいい」
とか、みんな言う。一面はそうなのですが、
顔をあわせればいいというものではないよと。
ぶすっと「いらっしゃいませ」と言われるよりも
「ふみ」で伝わってくる心配りがいい時もある。

リアルな空間だけが最高ではないという、
むしろメールとかインターネットって、
人間のすごみを引き出してくれているような
気がするんですよ。
糸井 そこは、今まで使っていなかった筋肉で、
でも、昔はさんざん使った蓄えが、
人類としてはある、みたいな。
田坂 そうそう。
糸井 だけど、田坂さんは、直に消費者と
インターフェイスしていないですよね。
それにしては、すごいですよね?
商売人の息子ですか?
田坂 もし私が、多少なりとも
消費者の気持ちがわかるとしたら、
それは私が消費者だからじゃないでしょうか。
たぶんマーケッターにとっての王道はそこで、
マーケッターのプロになろうとするよりも、
消費者のプロになってみようという
マインドのほうが、重要なんじゃないですか。
糸井 そうですね、ぼくもひとにはよくそう言います。
田坂 男性から見てチャーミングな女性って、
けっこう心が男性的なひとが多いですよね。
あれは「自分が男性だったら」と、
男性の気持ちがすごくわかるんですよ。
こういう風にふるまったら
男性は絶対にぐっとくるというのが、
無意識でわかっている。

だから、マーケッターというのは、
マーケッターであってはいけないんですよ。
徹底的なコンシューマーになるというのは、
そこのあたりで。
糸井 そういうことは、
実は脳でわかっていないとしても、
心では、わかっていたと思います。
実際にそうやって選択されているわけですよね。
コンシューマーとして生きていれば、
それは自然にわかることなはずですよね。

つまり、
「これを、もらったと思ってみろよ」
という一言ですよね。
あげるときのことじゃなくて、
受け取ったときのことを考える。
着眼点が見えて、その着眼点にいるのが
自分だという共感性みたいなものが、出ますね。

ただ、あんまりまともにぶつかると、
自殺者を慰めているうちに
心中してしまうようなことになるので、
そこはむつかしいけど。

すごい人気のあるホストに会っていると
本当によくわかるんですけど、
もう、自己がぎりぎりまで失われているんです。
コンシューマーのプロの徹底的なかたちは、
何もかも共振する能力になるんですよ。
ぼくは今、そのすれすれのところまで
来てしまっているんです。怖いですよ。
田坂 売る側の立場に立っている自分と、
「それじゃいけないんだ」
と、買い手の立場に立っている自分と、
あとはもうひとり第3の自分がいて、
それがそのふたりから離れて、
ちょっと冷めて見ているんですよ。
この3人目がプロの世界のような気がします。
糸井 ですよね。
それが支えるんでしょうね。
そのときには小さな決断が必要になって、
最初に言っていた・・・
田坂 「割り切りとは魂の弱さだ」と。
糸井 そういう割り切りを、第3者がしないと、
だめなんですよね。
ぼくなんかだと、その第3者が、
お客さんというか、読者なんです。
「よかった」
という一言で、明日も生きられるんです。
これがないと死にますね。
田坂 なるほど。
糸井 ぼくひとりになってしまうと、
無限に共振する宗教家になってしまう。
イエスの方舟のおじさんになってしまう。
あのひとは、どうも話をきいていると、
ある意味で、最高の宗教家らしいですね。
「私死んでしまいたいんですけど、
 一緒に死んでもらえますか」
ときいたら、
「はい」
と言うひとらしいんです。

これは、自己が消滅するところまで行っている。
ぼくたちは、もっと薄めて使うわけですよね。
「俺だって眠いから、そこまでは」と。
わけのわからない理由を言うんだけど、
もうひとりの自分を読者に求めていて、
「俺をはげます市場」をもう一度つくって、
その階層が、風車みたいにしてまわっている。
田坂 わかるわかる、すごいわかるな。
糸井 痛いし、気持ちいいし、疲れるし、元気だし、
カオスそのものになる。
だから、どう休むかが今の一番の課題で、
釣りをしているときには何も考えないので、
早く釣りに行けばいいんですけど、
循環しているときには、
そこを飛び出せないじゃないですか。
田坂 MITのシェリー・タークルという研究者の
『接続された心』という本には、
インターネット内の共同体についてのことが、
すごく詳しく書かれています。
多重人格論や言語の問題が、
ウェブ上にある、というんです。

このひとにはすごく正しい洞察と直観がある。
私は、多重人格がいい意味で広がると思います。
「あいつは二重人格だ」と言ったりしますが、
実は五重にも六重にも、人間にはずいぶんある。
そのなかのどれかで生きているだけなんです。
無意識的にも、意識的にも選びとっている。

ウェブの世界では、
「こんな自分もいるんだ?」
というのを匿名でやれてしまうものなので、
人間の潜在意識を解放できる場なんです。
だからあんまり批判したり抑圧しては、
いけないと思います。
文部省推薦のウェブにしてはだめだと思う。

もともと誰でも、
自分を表現したいという欲求はあるんですよ。
ところが、マスメディアの時代には、
ごく一握りの人間しか、それを実現できなかった。
ところが、ウェブでは、今まで世の中に
認められていなかったひとたち、
例えば死体愛好者がホームページをつくる。
糸井 そういうの、おもしろいです。
つくったひとたちが、生き生きしてますね。
田坂 今まで誰も自分の話をきいてくれないので
やや病的になったひとたちが、
適正なレベルで解放されているんです。

子供たちが見てはいけないページとかが、
短期的には出てくると思いますけど、
もっと大きな目で見てみると、
きっと、人間の心の深いところの情動の
ひとつの進化をもたらすのでしょう。
糸井 自分を好きであれる理由を見出せる。
田坂 そのとおり。
糸井 ぼくは、露出狂のひとの
ホームページが、好きなんです。
やってることは犯罪すれすれなんですけど、
そのひとたちにこの場がなかったら、
どうするんだろう?と思うと、ぞっとします。

ほんと、お台場を裸で散歩してるんだから。
すぐ行って、ぱーんと脱ぐ。
おんなじ趣味のひとがそのページに集まって
写真を公開したり日記を書いたりしてるんです。

今までは、ある集団を見つけた人が
「こいつらがいる限りは、商売になるな」
そう思った誰かが、市場をつくってきた。
「ゲイがこんなにいるなら、商売になる」
例えば以前は、そう思うひとがいたから、
ホモセクシュアルの生きる場所ができた。
ビジネスが発生したことで、
メディアが発生したんですね。

今は逆に、場はつくれるから
商売を発生させなくてもいいし、
お互いの商売を別の次元で発生させればいい。
俺はたまたまホモセクシュアルではないけども、
場所ができたことは、
よかったなあと思うんですよ。

(つづく)

2000-06-14-WED

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