YOSHIMOTO
吉本隆明・まかないめし
番外。

老いのこととか、人類の言語の獲得とか。

第4回 中のことを、中でもってわかること。


おとといにひきつづき、
吉本さんによる、中沢新一さんについての談話を、
ゆっくり、重複を含みつつ、紹介しますね。


「中沢さんは、チベットの現在の宗教家の中で
 人から重んじられてる人が、
 祖先の考えを受け継ぎながら、
 今は何を考えて、
 これまでどういうことをやってきたんだ、
 っていうのは、
 その人と同じことをするしかないといって、
 彼は修行のしかたを、習うわけですね。
 教わりながら、
 相手が考えていることを察知するというか。
 
 間接的に推察しないで、直接的に推察する、
 っていうのが、あの人の根本の方法でして。
 間接的に推察するって、わかりっこないから、
 やっぱり、宗教家から直に、その人がやってきて、
 修行してきたとこ次々と言う通りにやってみて、それで、
 実感的に『あ、こうだ、こうだ』ってわかってくる。
 
 『頭の方から背骨のほうに、
  赤い光みたいなのが出る』
 と言われる状態になるまでやってみたりという、
 おもしろいっちゃおもしろいけど、
 まどろっこしいって言ったらまどろっこしい(笑)。
 しかし、とても重要な試みなんですね。
 ぼくらがふだん『あいつの気持ちはわかる』とか
 言ってることだって、やっぱり外側からのもので、
 ほんとに内側からじゃあ、ないんですよね。
 その人が内側から感じているものを拾おうと思うなら、
 昔だって今だって、同じ行動をする以外にはない。

 人の心の中を、かんたんにわかったとか言うのは、
 ウソだっていうか、中沢さんのやっていること以外に
 わかる方法はないんだなぁっていうのは、
 なんとなくわかりまして……それは、
 とても重要だっていうか、おもしろい考えですよね。

 そういうことは、ぼくの場合は、
 自分が身体を悪くしたから、余計にわかるんです。
 それがなかったら、これほど中沢さんをわからなかった。
 それまでは、『なるほどな』というか、
 趣味でもって、チベットに出かけているもんだと
 思ってたのですが、大まじめだよということがわかった。
 『外から見てあるものがわかること』と、
 『中でもって中がわかるということ』とは、
 ぜんぜん違うってことが、わかったんですね。


 中沢さんとは、対談もしたことがありますが、
 その当時は、
 『あの人は、要するに、逸らす人だ』
 と思っていたんです。
 剣術界で言えばうまく身をかわして、今度は
 逸らしちゃったよっていうのとおんなじ意味あいで、
 『うまく身をかわす』という人だと思っていた。
 この人は、何でもスルリとうまくよけるなぁ、
 みたいな感じでいたのですが、とんでもない話で。

 実は、大まじめな人だった。
 今は、なるほどって感心してるところですし、
 ずいぶん一生懸命なんだよなって思うんです。

 ぼくは、中沢さんのいちばん最初の本の
 『チベットのモーツァルト』の解説を書いたものだから、
 今度はもうすこし本気で読みこんでみたのですが、
 『ありゃあ、わかったぞー!』
 っていう感じが、いくつもあったんです。
 本気でやっているし、冗談でもない。
 
 なんで当時、そう思われなかったのかは、
 『むずかしい』とされていたからだと思うんです。
 読み手の側のほうでは、中沢さんに比べると、
 『知識不足』っていうのもあったでしょう?
 それが、ひとつあるわけで、もうひとつは、
 それはまだ、『チベットのモーツァルト』の頃は
 あの人が若い時で、文章を、書き慣れてなかった。

 
 その感じは、読みなおしてみて、よくわかった。
 引用の書き方だったら、たとえば、
 クリステヴァの発言について、
 こう言ったから、こうなんだとは書かなかったんです。
 クリステヴァって人が何を書いたんだ、
 ってことはちっとも書いてないんですよ。
 っていうことは、読む側は、
 中沢さんと同じものを読んでないと、
 これちょっと、これは参ったっていうあれがある。
 そういう面倒さっていうのと、
 『これ、いったい何だ?』っていうのが、
 混ざっちゃってたところがあるんでしょうね。
 
 ところが、そういう事情をわかりつつ読むと、
 こりゃ、この人はやっぱり、こんなことを、
 誰もちゃんと言ってくれもしないし、
 報告してくれないことをよくもやるねぇ、
 っていう感じとか、
 やっぱり大変なもんだね、っていう感じがあって。
 たいしたものだなぁ、と思いました。
 
 ここまでやっているのならば、
 宗教の、特にヨガの方面なんかをずいぶんやった
 オウムの麻原彰晃なんかが、尊重するはずだよ、と、
 そんなふうに、思いましたね。
 
 割合に一生懸命読んでみたら、
 『チベットのモーツァルト』は要するに、
 フーコーの『知の考古学』みたいなもんでね、
 これは精神の考古学っていうことをね、要するに、
 未開野蛮以前についてね、やりたくてやってんだ、
 っていうことが、おぼろげながらわかってきたんです」

 

こんな風に、らせん階段のように話を続けるのが、
吉本さんの話をするスタイルなんです。

「ひとつ、気づいたことがある」
という大きな軸を何度かくりかえし、噛み砕きつつ、
「そのあいだに、こんなことを思った」
「関係ねえかもしれないけど、こんなこともありますね」
と、ゆっくり、ふくらましていく。

聞き手側も、同じように、いったんもどったり、
もうすこし、自分の身にひきつけてみたりして。

1時間前に席を立った人が
ふたたび戻ってきても自然に入れるような抽象的な話。
吉本家の居間の雰囲気って、そんな感じなんです。

この日は、テーマがたまたま、
「中沢新一さんについて」だった、というわけでして。
それにしても、吉本さんの語りを聞いているうちに、
また、『チベットのモーツァルト』を
読みたくなってきますよね。

明日は、いくつかの比喩を混ぜながら、
吉本さんの会話を、さらに、紹介していきます。

2003-06-22-SUN

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