MAGIC
ライフ・イズ・マジック
種ありの人生と、種なしの人生と。


『続・マジシャン双六(すごろく)海外編』

前回、落語家の人生双六には真打ちという、
分かりやすい『上がり』があると書いた。
ところが、落語家さんにとって、
真打ちが必ずしも『上がり』とはならないらしい。

真打ちになった落語家さんは大勢いるものの、
自他ともに、

「あぁ、あの人は立派な真打ちだねぇ。
 そうそう、間違いないねぇ」

そう認められている真打ちもあれば、

「あのぅ、僕、真打ちなんですよ」

自分で名乗らないと分かってもらえない、
なんとも心もとない真打ちもいる。

マジシャンには真打ちという肩書き、制度がない。
それはそれで良いのかもしれないと思う。
制度上の肩書きに一喜一憂するよりも、
マジシャン自身の『上がり』を
設定すれば良いのだから。

僕の場合、振り返ってみればすべては通過点、
『上がり』などない人生双六が続いている。
『上がり』の代わりとなるのは、
やはり魔法のステッキが折れる瞬間なのだろうか。

ということで、今週のお題。
『続・マジシャン双六(すごろく)海外編』

< 振り出し >

1988年、FISM(Festival International
Society of Magic)に参加、
コンテストに挑戦して大仕掛け部門の3位に入賞。
すごいっ、お見事と自画自賛したいところだが、
当時は図々しくも、
「もうちょい相方ががんばっていれば1位だったのに」
と、互いに思っていた。
< 1つ、すすむ >

1989年、アメリカのサンディエゴで開催された大会に
参加。
今ではマジック界のスーパー・スターとなった
デビッド・カッパーフィールドをレストランで見かける。
僕の隣の席に座っていて、
「ハロー」
と声をかけると、
「ハーイ」
と答えた。

後年、彼が日本のマジック界でも有名になった頃、
僕は多くのマジシャンに、

「あぁ、デビッドねぇ。
 彼とはアメリカのサンディエゴで
 一緒に食事をしたこともあったなぁ。
 うん、色々と話したよ」

などと自慢してしまった。
本当は隣の席に座っただけで、ただひと言、
「ハロー」
だけだったのに。
< 1つ、もどる >

同じく1989年、南米のチリの国営放送に出演。
チリはスペイン語圏で、
「すいません、ビールください」
を、
「ウナ セレベッサ、ポルファボール」
と言うのだと教わった。

他にもあれこれ教わったのだが、なぜか、
「ウナ セレベッサ、ポルファボール」
しか通じなかった。
テレビ出演の際もまるで他の言葉が通じず、仕方なく、
「ウナ セレベッサ、ポルファボール」
ばかり連呼していた。

だが、これがウケた。
番組の司会者も観客もゲラゲラ笑うのだった。
なぜウケたのか未だに分からないままだが、
それで良いと思う。
とにかく、ウケればこの世はハッピーなのだ。
<3つ、すすむ >

1990年、イタリアのミラノでテレビ出演。

イタリアの司会者がしきりに聞いてくる。
「日本のマジック・ワールドは何て言うの?」
そう聞かれても、何のことだか分からない。
それでも、何度も何度も諦めないで聞いてくる。

そのうち、ふと気付いた。
「日本のマジック・ワードは何て言うの?」
という質問なのだと。
マジック・ワード、つまり魔法の呪文の言葉。
「日本では、ちちんぷいぷい、と言います」
司会者は得意満面になって、
「チチン、プイプ〜イ、チチン、プイプ〜イ」
何度も嬉しそうに叫んだ。
< 2つ、すすむ >

同じく1990年、モナコの
グレース・ケリー劇場に出演。
これだけで、大きく前進。
< 5つ、すすむ >

なにせ、かの伝説の女王の名を冠した
美しい劇場の舞台に立てたのだ。
しかも、モナコ公国のロイヤル・ファミリーが
主催するイベントであったのだから。

ロイヤル・ファミリーの皆さんも、
客席で我々のマジックを鑑賞された。
マジックのウケはさほどではなかったが、
フィナーレで僕はメガネをかけ、カメラをぶら下げ、
大きな鞄を転がしながら登場、やや出っ歯にして、
パチパチとカメラのシャッターを押す動作をした。

これがウケた。
たぶん、これが西洋の皆さんが抱く
日本人のイメージなのだろう。
恥ずかしい?
いやいや、そんなことは微塵も感じない。
ウケればモナコもハッピーなのだ。
<3つ、すすむ >

1991年、スイスのローザンヌで開催された
マジック大会に出演。
はて何を演じたのか、コンテストに出たのか、
まるで記憶がない。

ただ、スイスのマジシャン、マルコ・テンペストとの
出会いだけを覚えている。
なぜか意気投合してしまった僕とマルコは、
ローザンヌ市内のレストランで飽きることなく話し合った。

僕の英語はブロークンだった。
もちろん、マルコの英語を完全に理解などできなかった。
それなのに、1時間でも2時間でも、
僕とマルコは額をすりあわせるようにして
話し合ったものだ。

彼は厳格なベジタリアンだった。
20年以上を経た今、
「オニーチャン、トンコツ、ラーメン」
すっかり日本通になっている。
そして僕は、相変わらずのブロークンな英語で
応えている。
< 1つ、すすむ >

同じく1991年、スペインのバルセロナにて
テレビ出演。

テレビ局での打ち合わせには、通訳が付いていた。
日本語をスペイン語に通訳してくれるのではなく、
僕が英語で説明し、通訳はその英語を
スペイン語にしてしてくれるのだ。

これがどうにも通じていない。
僕の英語が通じていないのか、
通訳のスペイン語が拙いのか、
まるで打ち合わせが進行していかない。
仕方なく、僕とディレクターと直接、
互いにブロークンな英語で話してみた。
すると、何となく通じ合ってきたではないか。

良かったなぁと思っていると、通訳の女性が涙ポロポロ。
「どうせ私はダメな通訳よ。
 でも、外されるなんて、ひどいっ」
とでも言っているのだろうか、
泣きながら激しく怒っていた。
よく分からないが、とにかく、すみませんでした。
< 3つ、もどる >

同じく1991年、フランスのテレビ番組
『パトリック・セバスチャン・ショー』に出演。

収録スタジオは、パリ郊外の緑豊かな街にあった。
いざ本番となり、勇んでステージに飛び出した。
すると、大勢の観客がものすごく派手な衣装で
客席を埋めていた。
どうやら、スタジオは
仮装パーティの会場という演出らしい。

リハーサルでは司会者や他の出演者も普段着で、
観客もいなかったので、スタジオの雰囲気の変わりように
心底驚いた。
観客のハデハデ衣装に比べれば、我らの衣装の地味なこと。
ついでにマジックまで地味になったような気がした。
< 2つ、もどる >

敬愛する落語家の師匠に問うてみた。

「人生双六ねぇ。
 まぁ、落語家の『上がり』っつぅのは、
 死なないってぇことだな。
 うまくってもヘタでも、とにかく生きてて、飽きもせず、
 いつまでもぶつぶつ言ってりゃぁ、そりゃぁ立派な
 『上がり』ってぇもんだよ」

生きてて、飽きもせず、か。
なんだか、素敵な『上がり』を見つけたような気がした。

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2013-02-10-SUN
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