MAGIC
ライフ・イズ・マジック
種ありの人生と、種なしの人生と。


『マジシャンはつらいよ 父の麦わら帽子』


まだ6月だというのに、
僕の故郷は朝から陽射しが眩しく暑かった。
いつもの散歩に出かけようと思ったのだが、
一歩外に出ただけで部屋に戻ってしまった。

「今日は散歩は無理やよ。途中で倒れてまうよ」

姉の声に頷きながら外を見ると、
90歳の父が外でなにやら作業をしている。

「お父ちゃん、なんか外で働いてるよ。
 大丈夫かなぁ」

姉はカーテン越しに外を覗いて、

「なんやろ、暑ても寒ても、なんやら仕事するでね。
 わたしらには無理やて。
 本当に、大したもんやて」

「お父ちゃん、今日は暑いで作業はしない方がいいよ」

姉が父に呼びかけるのだが、

「ほやなぁ、暑いなぁ。
 ほんでも、これは今のうちに片付けんとなぁ」

父は麦わら帽子をかぶり、すぐ近くの畑のネギを穫っては
中庭の日陰に運んでいる。

「あの麦わら帽子ねぇ、
 あれを買いに行くのが大変でねぇ。
 お父ちゃん、なんでもやけど、
 その辺で見てパパッと買う人やないでねぇ。
 あの麦わら帽子買うのに、
 あっちこっち5軒は回ったでねぇ。
 頭が入らん、大き過ぎる、形がもうちょっと。
 なんや知らんけど、こだわりがあるんやろね。
 麦わら帽子尋ねて3千里やでねぇ。
 ほんで、こんならええわって、やっと買ったんやよ」

麦わら帽子を買うのに3千里かぁ。
そういえば、父と姉の車で買い物に行くと、便せんとか
封筒とか、どれでも同じようなのに、

「これもええけど、ちょっと、違うなぁ。
 もうちょっと、違うのが、あったんやけどなぁ」

僕と姉は、辛抱強く父の買い物に
付き合わなければならない。
あちこちのスーパーを転々と走り回り、駐車場に車を停め、
広い店内を歩いて、目指すものを探す。
本当に、たとえ3千里であろうとも厭わず探すのだ。
そうして、

「これや、これや。
 これじゃないと、あかんでなぁ」

父は鼻のてっぺんを赤くして喜ぶ。

やっと手に入れた父の麦わら帽子が、陽射しを浴びて
黄金色に輝いている。

翌日も暑かった。
だが、暑いからと2日も3日も歩かないわけにはいかない。
僕は1日1万歩を目標にしているのだ。
それが、このところせいぜい3千歩ほどしか歩いていない。

中庭を見ると、自転車のハンドルに掛かった
父の麦わら帽子が目に入った。

「ねぇ、あのお父ちゃんの麦わら帽子、
 借りてもいいかなぁ」

僕の問いかけに姉は、

「えぇと思うよ。
 今日はまだ農作業しとらんし。
 なんや書道をせなあかんらしいで、
 自分の部屋におるでね」

父の麦わら帽子をかぶってみた。
僕にはやや大きいが、陽射しを充分に遮ってくれそうだ。
僕は帽子の紐をあごの下でゆるく縛り、
近くの川に向かって歩き出した。

麦わら帽子が、こんなにも陽射しをやわらげるとは
知らなかった。
子供の頃に何度も通った川への細い道を歩くと、
左右の田んぼから吹いてくる風が心地いい。
麦わら帽子の編み目のすき間を風が抜けて、頭も涼しい。
これはいい、僕は麦わら帽子の良さをあらためて思った。

子供の頃は誰も皆、麦わら帽子をかぶったものだ。
なんせ、他に代わるものがなかったのだ。
いつしか麦わら帽子は周りから消えて、
僕は帽子をかぶることもなくなった。

都会では、麦わら帽子をかぶっている人を見ない。
でも、麦わら帽子の快適さを知ったら、
都会の人だってかぶるかもしれない。

「きゃぁ、麦わら帽子、カワイイ〜」

なんて、意外と流行るかもしれない。

「そんなわけないかぁ。
 やはり野に置け、麦わら帽子」

しょうもないことをぶつぶつと思いながら歩いていると、
すぐに川面が見えてきた。
本当に、子供の頃のままだ。
川岸のひとつひとつの石ころだって、同じように思える。
川岸に立つと、涼しい風が吹きつけてくる。
川の上流の、緑が濃い山々からの風が川面を吹き降りて、
なんとも気持ちがいい。

子供の頃を思い出しながら、明日は釣りでもしようかな、
などと考えていた。
突然、左から強烈な風が吹き、紐があごから抜けた。
あの父の麦わら帽子が、僕の頭から飛んでしまった。
アッと思う間もなく、
麦わら帽子は川面に落ちてしまったのだ。

しまった、取りに行かねば、と思った。
なんせ、父の大切な麦わら帽子だ。

「麦わら帽子を尋ねて3千里やでねぇ」

姉の声も聞こえてくる。
しかし、僕の足元はお気に入りのブランドの、
とてもカラフルな靴だ。
紐靴で、しっかりと結んである。
紐をほどいて、靴を脱いで、ズボンをたくし上げて、
と頭のなかで段取りを考えるのだが、
それより早く麦わら帽子は流されていく。

少し先の流れが急なところまで流されたら、
もう取りにはいけない。
僕は意を決して靴のまま川にザブザブと入った。
流れ去ってしまおうとする父の麦わら帽子を、
グイっと掴んだ。
その瞬間、足元が滑った。
僕は仰向けに倒れた。
全身がびしょ濡れになった。

だが、麦わら帽子は絶対に離さなかった。
川岸に上がると、ズボンからザザァと水が出た。
靴のなかの水が、歩くたびにブチュッ、ブチュッと出る。
はたして、この靴は乾かせば元に戻るのだろうか。
数歩歩いてふと気付けば、サングラスがなかった。
転んだ時に外れて、川に落ちたのだろうか。
振り返って転んだあたりを見てみるのだが、
見つかるはずもない。

あのサングラスは、デパートで買ったものだ。
ちょっと高くて、でも好いなぁという思いが勝って
買ったものだ。
確か1万円は超えていたように思う。
あぁ、残念だ。
もう少し、あご紐をきつく締めておけばよかった。
そうすれば、麦わら帽子は風に飛ばされず、
サングラスもなくすことはなかったのに。
だが、すべては後の祭りだ。

ともかくも、父の大切な麦わら帽子はなくさなかった。
僕は再びあごの下で紐をしっかりと結び、家に戻った。

「どうしたんや、びしょ濡れやんかぁ。
 川に落ちたんか」

「川にお父ちゃんの麦わら帽子が落ちてね。
 拾うために川に入ったんだよ。
 だって、3千里の果てに買ってきた
 麦わら帽子っていうからさ。
 川に流しちゃったら大変だと思って、飛び込んだんだよ」

姉は笑って、

「あの麦わら帽子ねぇ、238円やよ。
 そんな、川に飛び込んでまで拾わんでもよかったに」

そうだったのか。
ならば無理して拾うこともなかったかもしれない。
僕は238円を拾って、
1万円(サングラス)を落としたということになる。

父が庭に出てきた。
麦わら帽子をかぶり、畑に空豆でも穫りに行くのだろうか。

「やっぱり、流さないでよかったかも」

僕は父の麦わら帽子を目で追いながら、
たとえ238円でも
何物にも代え難いものがあるのだと思った。

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2012-06-24-SUN
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