MAGIC
ライフ・イズ・マジック
種ありの人生と、種なしの人生と。


『大使公邸に出囃子が鳴る』

小さな雨粒が空から落ちてくる。
目の前に見える東京タワーも、
展望台の上は霞のなかだ。
行き過ぎる人たちが、幻想的な摩天楼に
カメラを向けている。
私も1、2度シャッターを押し、
オランダ王国大使公邸に向かった。

公邸は高い鉄柵に囲まれている。
さぞかし警備が厳しいだろうと思いきや、
警備室で名前を告げると、
「どうぞお入りください。
 右手に進んでいただくと玄関でございます」

鬱蒼とした樹木の間の小道を抜けると、
明るい玄関ホールが見えてきた。

傘を置いてなかに入ると、
なんとオランダ王国大使自らが
出迎えてくれているではないか。

「お招きありがとうございます。
 お目にかかれてうれしいです」
みたいなことを、なんとか英語で伝えた。

今夜はここオランダ王国大使公邸で、
柳家花緑師匠の落語会が開催されるのだ。
これまで様々なところの落語会を見に行ったり、
トリ前に出させてもらったりはしてきたが、
大使公邸での落語会は初めてだ。

2階の、花緑師匠の控え室に案内された。
花緑師匠はほほがこけて、
顔がずいぶんと小さくなっていた。

「やはり、さすがの花緑師匠も、
 大使公邸での独演会だ。
 ネタをどうするか、あれこれ思い悩んで
 痩せてしまったのだろうか」
私は思わず邪推してしまった。

実は、花緑師匠は断食修業の最中だったのだ。
「健康増進のために食べ、
 時にサプリなどで栄養を補給する。
 つまり、足していくのが身体にいいと思ってました。
 でも、今は引き算ですね。
 余分に摂っていたものを排除していくんです。
 そうして身体が一度ゼロに戻ると、
 色んなものが冴え冴えと、
 すごく新鮮に感じられるんですよ」
師匠がまるで修験僧のように見えてきた。

柳家花緑師匠は、とてもストイックな人だと思う。
また、それが似合うのだ。
ただ、いかに難行苦行を重ねても、決して暗くはならない。
むしろ、明るい修業ぶりなのだ。
これまた私の邪推でしかないのだが、
激流に流されて必死に泳いだものの大量の水を飲み、
ついには諦めて泳ぐのを止めたらプカリと浮いて、
「なんだ、こうすりゃ沈まないし、
 気持ちまで楽じゃないか」
そう達観したような表情を浮かべている。

「落語というものは、
 何もないからこそ無限の世界がある。
 すべてを、あらゆることを
 イマジネーションだけで見せられる」
ある師匠の話に、大いに納得したものだ。
もうすぐ出番を控えた花緑師匠の顔に緊張感は見られない。
まるで無表情だ。
だが、だからこそ、喜怒哀楽、
人間の感情を無限に表現できるのかもしれない。

特別に設えられた高座を前に、大使が英語でご挨拶、
続いて花緑師匠を紹介された。
お囃子が鳴るなか、英語で紹介されるという落語会は
初めてだ。

オランダ国旗にちなんだマクラの後、
『時そば』が始まった。
噺のなかに、当然ながらそばをすするシーンが何度もある。
あのそば等をすする音は、外国ではタブーとされている。
あのズズズーという音が、外国人には
とても不快に聞こえるらしい。
大使ご夫妻をはじめ多くの外国人のお客さまを前にして
花緑師匠、実に大胆なネタの選択ではないか。

2席目は『試し酒』。
花緑師匠は断食修行の最中でありながら『時そば』と
『試し酒』という、食べて飲んでを
たっぷりと表現しなければならない噺を
表情豊かに演じきったのであった。

打ち上げの席で花緑師匠に、
「断食中だからこそ、
 美味しそうに表現できるのかねぇ」
と振ってみた。
「さぁ、どうなんですかねぇ」
師匠は、修業明け間近の僧侶のような
穏やかな笑みを浮かべるだけだった。

「オレは、まだまだこの心境にはなれないな」
私は心のなかでつぶやいて、美味し過ぎるペンネ、
リゾット、生ハムをたっぷりと食べた。

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2012-05-20-SUN
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