MAGIC
ライフ・イズ・マジック
種ありの人生と、種なしの人生と。

『薄情者』

夜中に携帯が震えた。
同級生の泉原だった。
いつものように酔っ払っている。

「おい、小石よぉ。元気なのかぁ。
 あのさぁ、酔っ払ってるんだけどさぁ」

今日に始まったことではない。
だいたい、シラフで電話してきたことなど
一度もないじゃないか。

だが、お前の酔っ払った声を聞くのは嬉しくもある。
きっと仕事を終えて誰かと夕ご飯を食べ、やれやれと飲み、
すっかり酔っ払って電話をしているのだろうと想像する。
とりあえずは元気で、それなりに穏やかな日々を
過ごしているのだろう。

「お前、覚えてるか。
 同級生だった田中。覚えてない?
 お前、本当に覚えてないの?
 お前、薄情なやつだなぁ。
 あれこれ、俺たち、あったじゃないか。
 お前、覚えてないのかぁ。
 本当に馬鹿なやつだなぁ。
 じゃぁ、増田先生は覚えてるだろ?
 いくらお前でも、あの先生にはお世話になったんだから。
 なに、覚えてないぃ?
 おいおい、お前、どういうことなんだよ。
 実はなぁ、あの増田先生が亡くなったんだよ」

私は本当に薄情な人間なのかもしれない。
もちろん、同級生の田中のことも
恩師の増田先生のことも覚えてはいる。
ただ、そうした人たちのことを
これまで一度も思い出しさえしてこなかった。
どう言い繕っても、彼らを覚えていないのと同じなのだ。

「いやいや、もうだいぶん前のことらしいんだけどさぁ。
 先生はさぁ、お前の住んでるところの
 すぐ近くに住んでたんだぜ。
 知らなかった?
 ということは、お前、
 あれ以来一回も会ってないってことだな?
 いや、俺も会ってないけどさぁ。
 だって、俺は遠いからさ。
 なんか、お前、知ってるのかなぁと思ってさ。
 なのに、お前、何も覚えてないんだなぁ。
 お前って、救いようのない馬鹿だよ」

私は、増田先生のことを思い出そうとした。
だが、スーツ姿の先生の足元から視線を上に向けていくと、
先生の顔はのっぺらぼうになってしまう。
先生、薄情な私をお許しください。

「だってさぁ、ほら、あの頃、
 小田急線沿いに住んでただろ。
 あの、お前のアパートに行っただろ?
 そしたら、お前がマジックを見せてくれたんだよ。
 俺はさぁ、ビックリしたんだよ、感心したんだよ。
 それは覚えてるだろ、覚えてるだろ」

確かに、そんなこともあった。
訪ねてくる友人などいなかった私には、泉原だけが
あのアパートの一室での友人との小さな思い出だ。
といっても、その思い出さえ色あせて、
まるで薄墨のようにしか浮かんできてはくれないけれど。

「そいでお前、俺の話を聞いてくれてさぁ。
 俺は嬉しかったんだよ。覚えてるだろ?」

泉原はいつも真面目だった。
それゆえ、いつも悩んでいた。

「そうそう、それから卒業してさぁ。
 それがひょんなところで
 お前とバッタリ会ってさぁ。
 あの時もお前、あんたは誰だぁ、
 みたいだったじゃないかよぉ。
 お前、本当は俺のこと忘れてたんじゃないの?
 なに、覚えてたぁ。
 そうかぁ、俺のことも覚えてないんじゃ
 馬鹿過ぎるもんなぁ。
 それでさぁ、俺はまた嬉しくなって
 一緒になんかやろうってことになったんだよなぁ」

当時、泉原は出版社に勤めていて、
私に本を書くように勧めてくれたのだった。

「ところでよぉ、俺は今は勤めてるんだよ。
 そいでさ、車の中でラジオ聴いてるんだよ。
 ほら、朗読の番組だよ。
 夏目漱石とか芥川とか、これがまたいいんだよ。
 ところがさぁ、朗読は45分でさぁ、
 俺は30分で会社に着いちゃうんだよ。
 いよいよこれからって時に、
 ラジオ切って仕事に行かなくちゃならないんだよ。
 分かるだろ? お前なら分かるだろ?
 気になるんだよ、切ないんだよ。
 でも、仕事に行かなくちゃならないんだよ」

泉原は出版社を辞めて、今は別の職に就いている。
私は、ただ黙って聞いていた。

「だからさぁ、休みの日に図書館に行ってさ。
 ところがさぁ、
 なかなか見つからなかったりしてさぁ。
 俺は悔しくてさ。お前、分かってくれるだろ?
 だってさぁ、お前が言ってくれただろ、
 俺が卒業して自分の道を進んでるって。
 王道を行っててえらいってさ」

泉原は国文学を専攻し、
主に近代文学を扱う出版社に就職したのだった。
同じ専攻なのに、私はずいぶんと違う世界へと
進んでしまった。

「お前はまるで関係のないところへ行っちゃってさぁ。
 俺の方がびっくりしたけどなぁ。
 だけどさぁ、俺は本当はやっぱり
 源氏とか読みたいなぁと思ったりしてさ。
 まぁいいや、お前、俺んところに飲みに来ない?
 だってさぁ、お前んとこは遠いだろ。
 俺は行けないだろ。 だからさぁ、
 お前が飲みに来いよ。
 泊めてやるからさぁ。
 まぁいいや・・・」

電話が急に切れた。

「おい、俺だよ。
 なんかさぁ、かみさんが言うには電池切れだってさぁ。
 そいで、小石さんに電池切れだって
 言わないといけないって言うからさぁ。
 まぁさ、とにかく元気でいろや。
 お前、俺もだけど、もういい歳だよ。
 いやいや、俺が飲みに行くよ。お前んとこのバーに。
 だってさぁ、お前、薄情なやつだけどさぁ。
 まぁいいや。
 悪かったな、夜中に。
 電池も、もうなくてまた切れちゃうかもしれないしさ。
 でもさぁ、酔っ払っちゃってさ。
 つい電話したくなっちゃったんだよ、わるいな。
 お前、でも、またな」

ありがとう、泉原。
確かに、私はあの頃の日々を忘れてしまった。
もう思い出すこともできない。
皆と離ればなれになって、ちょっと色々なことがあって。
目の前のことしか考えないようになって。
それでも、お前は時々電話をくれる。
ありがとう、泉原。
また酔っ払って電話してこいよ。

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2012-02-12-SUN
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