MAGIC
ライフ・イズ・マジック
種ありの人生と、種なしの人生と。

『2011年、ごめん!』

お昼時、近所のスパゲティ屋さんに入った。
本格イタリアンから和風まで
たくさんのメニューがあり、どれも美味しい店なのだ。
その中でも特に、アサリのパスタが気に入っている。

「今日も、いつものですか?」

「はい、いつものをお願いします」

マスターがパスタを大きな鍋に投げ入れ、
小さな鍋でアサリを茹で始める。
私はあの味を舌に思い浮かべながら、
マスターの手際を見ていた。

小さな女の子とおばあさんが入ってきて、
私の席の隣に座った。
ふたりは馴染みの客らしく、
マスターと親しく話し始めた。
まだ小学校に通い始めたくらいだろうか、
小さな女の子は椅子から身を乗り出して、
大声でマスターに話しかけている。

小さい体の女の子の声は、
隣にいる私の耳に刺さるように聞こえてしまう。
声は大きく甲高く、まるで叫んでいるかのようだ。
だが、マスターはまるで普通に聞いていて、

「うんうん、そうだよ。
 ここでスパゲティ茹でるんだよ」

などと普通に応じている。
女の子の声は更に大きくなって、
私は思わず耳を手のひらで覆った。
私は、おばあさんに注意をしてくれと頼む代わりに、
耳を覆ったまま頭を抱える仕草を見せた。
おばあさんはとても哀しげな表情になり、

「ごめんなさいね」

と言った。
しかし、女の子に、

「静かにしなさい」

などと注意はしなかった。
女の子の声は途切れず続いた。
私は不快感を隠せなくなり、おばあさんと女の子を
睨みつけるようにしながらパスタを食べた。

「まったく、せっかくの美味しいパスタが
 うるさい声でゆっくり味わえなかったよ。
 やれやれ」

心の中で毒づきながら席を立とうとし、
もう一度女の子を見た。
そこで始めて、女の子の耳に
小さな補聴器のようなものがあるのに気付いた。

私は、やっと状況を理解した。
だが、時すでに遅し。
私の不愉快な表情は、
店内の誰にも気付かれていただろう。
誰もが普通に振る舞うなかで、
私だけが思い至らなかったのだ。
店を出て、私は心の中で女の子に詫びた。

「ごめんね、おじさんはバカな大人でした。
 これからはもうちょっと
 気遣いのできる大人になるよう、
 努力するからね」

歯を磨きながらパソコンの画面を見ていると、
電話が鳴った。
急いで出ようとしてドアに激突してしまった。
くわえたままの電動歯ブラシが、
ドアに押されて喉の奥まで入ってしまった。
喉の奥が傷ついたようで、少し血が出た。

銀座の大きなビルに入った。
天井は高く、どこもガラス張りである。
正面のガラス扉を開けようとして、
ふと右に行こうとした。
右側はガラスの壁だった。
あまりに大きく、綺麗に磨かれていて、
私にはガラスの壁と認識できなかったのだ。

ゴ〜ンと音がして、
かけていたメガネがひしゃげるほどの衝撃だった。
メガネの金具が刺さったらしく、
右目の近くから少し出血していた。

近所を歩いていた。
マンホールのほんの小さな出っ張りにつまずいて、
前にバッタリと倒れた。
両手をついたので顔は打たなかったが、
両手のひらは縦に幾筋も細い擦り傷ができていた。

「相変わらず、あきれるほどに不注意なおいら。
 いつも考え事しながら歩いてるからいけないんだよね。
 本当にごめんね、おいら。
 来年はもっと自分を大切にするよ」

すっかり冬になったある日、故郷の姉から電話があった。
お袋が入院したとのこと。
天井の蛍光灯が切れたので取り替えようと踏み台に乗り、
落ちて足を骨折したらしい。

「そんなもん、誰にでも頼みゃぁいいのにねぇ。
 何でも、自分でやろうとするでねぇ」

手術の結果は良好で、短い入院だから大丈夫だよと言う。
すぐにも故郷に帰りたかった。
帰って見舞いに行きたかった。
だが、あれこれの仕事があって帰れないままに日が過ぎた。
お袋は驚異の回復力を見せ、予定より2週間も早く
退院をしてしまった。

私を鮭に例えるなら、故郷の川を出て
東京という海で泳いできたのだろう。
海の水は故郷の清流と違い、
ずいぶんと塩っからくて刺激的だった。

それでも、少しずつ慣れてあちこちを泳ぎ回った。
本当は、そろそろ川に戻らねばならない頃かもしれない。
それとも、もう戻るべき時期を過ぎてしまったのだろうか。
気まぐれに故郷に帰ると、
川の水の変わらぬ清さに驚きながらも、
東京という海の、あの塩っからい刺激を想ったりもする。

それにしても、お袋が入院しても帰らないとはあまりに
不孝の息子である。

「お袋、ごめんね。次に蛍光灯が切れたら、
 何があっても必ず帰って、僕が取り替えるからね」

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2011-12-25-SUN
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