MAGIC
ライフ・イズ・マジック
種ありの人生と、種なしの人生と。

『幻想美術館』


久美子は少し疲れていた。
いつもは真っすぐ自宅に帰るのに、
今日は寄り道したくなった。
右に折れると駅に向かう路地を、左に折れてみた。

節電のせいか薄暗い路地を歩いていると、
ひとつだけ光が漏れている窓があった。

なんだろう? 久美子はふと窓を覗いた。

「そうかぁ、ここはギャラリーなんだぁ」

壁に小さな絵が掛けられていて、
弱い光が絵を照らしている。
額の下の文字は、『初恋』と読める。

ひとりの男性がトランプを広げている。
普通のではなく、1枚1枚に英語の文字が書かれた
トランプのようだ。
その文字を読もうとするのだが、暗くて読めない。

久美子はなぜか立ち去り難くて、じっと絵を見つめていた。
すると、なぜか照明が徐々に明るくなって、
絵の隅々まではっきりと見えてきた。

「こんばんは、
 よろしかったら中でご覧になられては?」

初老の男性が、柔らかく微笑みながら話しかけてきた。

久美子は少し驚きながらも、
言われるままに開けられたドアに向かった。

「さぁ、どうぞ。
 実は今、閉めたばかりでして。
 でも、時間はたくさんありますから
 ゆっくりと絵と過ごしてくださいね。

 この椅子はアルネ・ヤコブセンの
 スワンチェアーというもので、
 座り心地、きっと気に入りますよ」

普段は人見知りの久美子だが、
なぜか誘われるままに椅子に座り、
あらためて絵に見入った。

「広げたトランプには
 アルファベットが1文字ずつ書かれていてね、
 他の文字は黒で、途中でぽつりと
 Iの文字が赤く、
 ちょっと離れて赤くL、また少し離れて赤くO。

 つまりは遠目で見ると
 『 I love you 』と描かれているのですね」

「きっと、この若いマジシャンの、
 初恋の人にだけ見せる
 特別なマジックなのでしょうね」

「この椅子、本当に座り心地がいいわ。
 それに、まるで私に向かって
 トランプを広げてくれているようで、
 なんかドキドキする」

老人の説明を聞きながら、
久美子は心の中でつぶやいていた。

「こちらのテーブルは、
 ポール・ケアホルムのものでして。
 椅子もすごく素敵ですよ。
 不躾ですが、少しだけ
 老人の晩酌におつき合い願えませんか?」

テーブルに、いつの間にか赤ワインが注がれたグラスが
ふたつ、置かれていた。
久美子はまるで催眠術にでもかけられたように、
言われるままにテーブルに移った。

奥のドアが開いて、老人が何かをテーブルに運んできた。
大皿に盛られた、熱々のラザニアのようだ。

「私はラザニアが大好物でして。
 自己流の味付けなので美味しいかどうか分かりませんが、
 一緒に味見していただけませんか?」

久美子は、この不思議な出会いのディナーを
楽しみたくなっていた。

「ありがとうございます。
 ギャラリーを開けていただいて、
 ゆっくり絵を見せていただいて。
 それに、とっても美味しそうなお料理、
 本当に嬉しいです」

「私はねぇ、ラザニアを作る度に思うのですよ。
 トマトソースを塗り、パスタを重ねる。
 その上にチーズを重ねて、またトマトソースを塗る。
 なんだか絵を描いているような気分になるのですよ。

 トマトソースの酸味、チーズのコクと苦み、
 パスタの甘さ。
 それらを塗り重ねていって、お皿の上に
 ラザニアという絵がやっと完成するみたいなね。

 食べている時には、酸っぱくて少し甘くて、
 それらが混じり合った味わいと苦みを噛みしめて。
 なんだか絵を見ているのとも似ているな、
 なんて思ったりね。
 変ですよね、ふふふ」

久美子も、ラザニアを味わいながら想いを巡らせていた。

「本当に、まるで油絵の具を塗り重ねていっているみたい。
 でも、今まで一度だって
 ラザニアから絵を連想なんてできなかったわ。
 酸っぱくて甘くて、それに、
 確かにどこかに苦みがあって」

「時々、赤ワインを飲むと振り出しに戻るというか、
 また酸っぱさや甘さが新鮮に感じられたりしてね。
 そうやって、いつまでも食べ、飲んでしまう、ふふふ」

老人に、久美子も笑みを返した。

「そうなんだわ。
 私もこれまでちゃんと働いて、
 しっかりと生きてきたように思っていた。
 でも本当に、いい味わいになるように
 塗り重ねてこられたのかしら。

 毎日がペラペラの、酸っぱさも甘さもない、
 苦みだって感じられない日々だったかもしれない。
 きっとこれまでの私は、冷たくて美味しくない
 ラザニアのようなものだったのかも」

「ほら、あの絵の中のマジシャンが、
 まだ貴女に問いかけていますよ。
 『 I LOVE YOU 』ってね。

 さて、貴女はどう応えられますかな。ふふふ」

「あの絵の中のマジシャンのように、いつか私に
 『 I LOVE YOU 』と言ってくれる人が
 現れるのかしら。

 これまで、好きと言ってくれる人はいたわ。
 でも、自然と気持ちは消えてしまった。
 まるで、スケッチはしたのに
 一度も絵の具を塗り重ねないで
 放っておいてしまったみたい」

久美子は赤ワインをコクリと飲み干し、
もう一度絵の中のマジシャンを見た。

「よろしかったら、
 明日またお越しいただけませんか?
 明日はまた新しい絵を飾る予定でね、
 貴女にもぜひ見ていただきたいのです」

赤ワインが、空になった久美子のグラスに注がれた。
美味しい招待状がグラスに届き、
久美子は小さく頷いて老人とグラスを合わせた。

さて、明日は
どんな不思議なディナーを見せてくれるのだろう?

                   (つづく)

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2011-08-07-SUN
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