MAGIC
ライフ・イズ・マジック
種ありの人生と、種なしの人生と。

『15歳の冬』


15歳の少女が、
スピード・スケートの選手として
バンクーバー・オリンピックに参加している。
彼女のインタビュー映像を見ていて、
15歳の時の私は
いったいどんなことを考え、生きていたのだろうかと
遥か遠い昔に思いを馳せた。

15歳の冬、私は何をしていたのだろうか。

中学3年生、15歳の私は、
岐阜県の山村に住んでいた。
祖父と祖母、父と母、二人の姉と暮らしていた。
当時の田舎としては、
ごく普通の家族であったように記憶している。

休みの日には、近所の中学生たちと裏山に登って
スキーをしたりしていた。
スキーといっても、竹を半分に切り、
先端を少し上向きに曲げた
手作りのスキー板しかなかった。
すべて近所の先輩たちから教わり、
後輩に伝えていった板作りだ。

そんなスキー板を靴に縛り付け、
それほど積もっていなくて
ところどころ泥土が混じっている、
これまた手作りのゲレンデを
滑り降りるのだった。

大人になってその手作りスキー場を見ると、
およそ10メートルくらいしかない、
ただの坂道であった。

同様に、夏に泳いだ清流は、
大人の目にはただの農業用水だ。

だが、今も帰郷すれば子供の頃のスキー場も、
豊かに流れる川も変わらない姿で迎えてくれるのは、
しみじみ貴重だと思う。

東京という都会では、ビルであろうと広場であろうと、
いつの間にか完全に姿を消したり、
あるいは変わってしまう。
生まれ育った街中に変わらず同じ生家がある、
などというのは珍しいことに違いない。
ましてや、30年も前の光景が
そのまま残っている場所など、
はたして東京という大都会に存在するのだろうか。

私の故郷は、奇跡のように生まれ育った頃のままの姿を
保っている。
それはまた、右肩上がりの高度成長や
開発による発展を見ないままに
時だけが過ぎているとも言えるのだが。

15歳の私にはカナダのバンクーバーはもちろん、
親戚の住む隣の愛知県、名古屋市だって
見知らぬ遠いところであった。
私の地球は岐阜県内に限られていて、
友人たちと自転車に乗って
少しだけ遠くに行くのが冒険だったのだ。
自転車による移動では、行動範囲は知れている。
せいぜい岐阜市の真ん中に行き、
当時は栄えていたアーケード街のにぎやかさに
うっとりする程度だった。

家では、深夜放送を聴いて
リクエスト葉書を書いて送ったりしていた。
一度も読まれたことはなかったが、ある春の日、
隣の街にDJさんが来ると聞いて
自転車で見に行ったりした。
プロ・マジシャンになってから、
一度だけそのDJさんに仕事先で会ったことがある。
お姿はごく普通のおじさんになっていたが、
声だけは中学生の頃に聴いたままで、
泣きたいほど嬉しかった。

15歳の夏のこと、
隣に住む先輩がステレオを買った。
その音のリアルさに驚いて、
何時間も先輩の家に居続けた。
人の良い先輩は、余っていたひとつのスピーカーに
長いコードをつなぎ、
竹やぶを挟んですぐ横の私の部屋に置いてくれた。
お陰様で、私の部屋で先輩のステレオの音を
聴けるようになった。
ただ、曲の選択肢も時間帯も、
すべては先輩まかせであった。
先輩が聴いている時は聴けて、
聴きたくない時でもスピーカーから
大音量が鳴り響くのであった。
スピーカーはひとつのままで、
正確にいえばステレオでもなかった。

秋のこと、帰り道の途中にある大きなお屋敷の柿が
たわわに実っていた。
ひとつくらいいいだろうと手を伸ばすと、
塀の向こうからお婆さんの声が聞こえてきた。

「まだ、それは渋いよ。
 もう1週間かなぁ、待ってなさいよ」

高校生となっても移動手段は自転車であったが、
行動範囲は飛躍的に広がった。

大学生になって、遠い東京で暮らすことになった。

大学を卒業して、私はやっと世界中を飛び回って
活躍する偉大なマジシャンと交流し、
サインをもらって大喜びする
普通のマジシャンになった。

15歳の冬から、早くも15年が過ぎていた。

このページへの感想などは、メールの表題に
「マジックを読んで」と書いて、
postman@1101.comに送ってください。

2010-02-28-SUN
BACK
戻る