MAGIC
ライフ・イズ・マジック
種ありの人生と、種なしの人生と。

『一番、いちば〜ん!』


私はマジシャンになって以来、
ずぅ〜っと一番のマジシャンになりたいと願ってきた。
大それた夢ではあったが、世界で一番、いちば〜ん!
のマジシャンになりたかったのである。
ただ夢見るのみではなく、
実際にその目標に向かって着々と歩を進めてきた。

まずは1983年、
ハワイで開催されたマジックの国際大会のコンテストに
挑戦してみた。
プロ、アマを問わずアメリカ人マジシャンが
多く参加したコンテストであったが、
ヨーロッパやアジアからの参加者もあり、
まさに世界規模のコンテストであった。
結果は、見事に6位入賞であった。
いきなり一番、とはいかなかったが、
初めての国際大会への参加、
その割には好成績というべきであろう。
鮮烈な世界デビュー、と自画自賛したものである。
翌1984年は
ラスベガスで開催されたコンテストに出てみた。
このコンテストは、
規定マジックと自由マジックのふたつの部門の合計点で
争うという、珍しいものであった。
我々は規定マジック部門でトップとなり、
いきなり一番、いちば〜ん! と喜んだのもつかの間、
自由部門では守りに入ってしまい逆転を許してしまった。
規定点と自由点を合わせた総合得点の結果、
一番どころか4位に転落してしまった。
その後、オランダやスペイン、スイス等、
ヨーロッパ各地で開催された国際コンテストにも
挑戦したのだが、
最高で3位になるのが精一杯なのであった。

いやはや、世界で一番というのはかなり難しい。
それに気づくのに15年以上を費やしてしまった。
しかし、それでも懲りない私は、
日本で一番のマジシャンになることにした。
ところがなんと日本国内は、
ありえないと思っていたマジックのブームが
突如沸き起こっていた。
テレビではマジック番組が数多く放送され、
それぞれが高視聴率を獲得していた。
これまでどこかに潜んでいたマジシャンたちが
一斉にテレビに登場し、
多彩なマジックを披露し始めたのであった。
中でも特筆すべきは前田知洋であろう。
彼は、これまであまり注目されなかった
クロース・アップというマジックだけで、
「これが本当の不思議、マジックだよ!」
と、人々の心を鷲掴みにしてしまったのだ。
カード・マジックひとつで、
奇跡のような不思議を紡ぎだしてしまったのだ。
人々は彼を『奇跡の指先』と賞賛し、
そのあまりにスマートな出で立ちに
若い女性ファンが激増した。
前田知洋という、あまりにすごいマジシャンの出現で、
私の日本国内第1位、いちば〜ん! 作戦は
泡のように消えてしまった。
しかし、それでもめげない私である。
幸いなことに、前田知洋は都内在住ではないと聞いた。
そこで私は
東京都内で一番のマジシャンを目指したのである。
だが、他にもたくさんのマジシャンが新たに登場し、
都内で一番の地位を狙うのも大変な状況である。
この際は区内で一番を狙うことに変更した。
背に腹は代えられないのである。
そこで、あまり多くのマジシャンが生息していない区を
探してみた。
墨田区が良かろう、墨田区一番のマジシャンになろう。
私の年来の野望、いちば〜ん! が
いよいよ現実のものとなってきた!
ところが、灯台下暗し。
墨田区には、なんと我が相棒であるBがいた。
あいつもかなりのテクニシャン、
少なくともコンビで1位だ2位だと争うのは
滑稽に過ぎるというものだ。
墨田区一番を諦めたそんな折、
あの松尾貴史氏が声を掛けてくれた。
「小石さん、実はこの度バーをやることになったんですよ。
 どうです、一 緒にやりませんか? 」
これだ! 私が一番になれる場所を見つけた!
バーでなら一番のマジシャンになれる、
夢のいちば〜ん! マジシャンだ〜い!
さっそくバーのお客さんにマジックを披露した。
皆さん大いに驚いてくれ、
私はやっと一番のマジシャンの気分を
満喫できる場所を見つけたのだ。
ウットリ、恍惚とした気分でふと横を見ると、
あろうことかあの松尾貴史氏が、
見事なマジックを見せていたではないか。
難しいテクニックも難なくこなし、
あのなんともいえないキャラで演じるマジックは、
どうやら私のマジックを軽く超えてしまって‥‥。
私の『いちば〜ん! マジシャン』への道は、
まだまだ遠い。

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2006-11-12-SUN

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