石川九楊の「書」だ。
(2)書がわからなくなる理由
糸井
書が簡単とおっしゃるのは、
どういうことでしょうか。
石川
いや、本当にね、書ほど易しいものはないです。

なぜかと言えば、みんな書いているわけですから。

ピアノなら全然弾いたことない人もいるでしょう?
だけど、字を書いたことのない人って、
今では、ほとんどいないですよね。

どこかで自分が書いた経験があるわけですから、
それはもう、わかりやすいわけです。

それにもかかわらず、なぜみんな、
「わからない、難しい」と言うのかと。

じつはここに、書がわからなくなる、
3つの傲慢な見方があるからなんです。
糸井
おお、3つの傲慢な見方。
石川
まず一つ目から。

「書を、上手いか、下手かと考えること」。

これが書を見えなくする、一番の理由です。

上手いのか、下手かなんてものはね、
小学校の学習進度の問題であって、
書そのものの問題ではありません。

みんなが書道の教育で嫌になるのも、
上手い、下手を気にして、
「下手だから、もうやめた」となってしまうから。

あのね、書は上手いか、下手かなんていう、
そんな粗っぽい網の目に
掛かるようなものではありませんから。
糸井
お仕着せの価値の中で
判断しようとしているってことですね。
石川
そうそう。
糸井
バラを見て反射的に「きれい!」と言う人が、
バラに似ていない路端のタンポポを、
「バラよりきれいじゃない」と見てしまう。

そんなことを、書でやっているわけですよね。
石川
ああ、そうそう。

だから、美術館や博物館で鑑賞しても、
「わあ、きれい!」と言って、
すうーっと通り過ぎてしまう。

書は人間の表現ですから、もっと複雑なものです。

上手いとか、下手だとか、
そんな簡単なものではありません。

夏目漱石は上手、森鴎外は下手なんて言って
済ませる人はいないでしょう?
糸井
ぼく、子どもの時に父親に言われたんですよ。

「これは上手いの? 下手なの?」と尋ねたら、
「上手いとか下手とかじゃなくて、これはいいな」
と父親が言ったのが、ずっと心に残っています。
石川
良い、悪い、というのはあります。

しかし、上手い下手の網の目には掛からないですね。

それが、一の理由です。
糸井
なるほど、おもしろいです。

その二は、なんでしょう。
石川
もうひとつの、書が見えなくなる見方。

それでは、秘伝を教えます。
糸井
えっ、ここで秘伝が聞けちゃうんですか。
石川
「何と書いてあるか」。
糸井
どういうことでしょう。
石川
何と書いてあるかだけを気にしてしまうのです。

例えば、色紙に書かれている歌が読めると、
「ああ、読めた!」って喜ぶんです。

でも、書では何と書いてあるかは問題じゃない。

ぼくが「山」と書いて、糸井さんも「山」と書く、
ほぼ日の編集のみなさんも「山」と書いたとします。

活字に直せば、どれも「山」。

「みんな『山』と書いている」というのは
つまらないことです。

書いてある文字が問題ではなくて、
その「山」をどのように書いているかが、書ですよ。

太い「山」も小さな「山」も歪んだ「山」も
そこには多様な「山」がある。

「何と書いてあるか」ではなくて、
「どのように書いてあるか」を
一点一画なぞりながら見ていってください。

先ほど、糸井さんがおっしゃった、速度などが、
どのように演じられているかが感じられます。
糸井
踊りや演劇のように見えてくる。

速度がわかると、しびれるんですよね。
石川
筆の速度は、力の具合ですね。

書というのは、触覚の芸術です。

たぶん、文学も触覚の芸術だし、
糸井さんが書くコピーもやっぱり、
触覚がベースになっていると思います。
糸井
触覚の芸術、いいですねえ。
石川
筆について、ちょっとおもしろい話があります。

ある科学者が書を習いに来まして、
「筆って、本当に紀元前の千何百年前からあるんですか」
と、驚いているわけですよ。

形がずっと変わらないことが不思議みたいでね。

だけど、いまだに筆は
最古にして最先端の筆記具ですよ。

筆は鉛筆にもなるし、針にも、
マジックにも、刷毛にもなる。

いろんな役目に代えて使えますけども、
逆は可能じゃないですから。
糸井
筆の穂先を使えば、すごく細かく書けるし、
根本まで使えばマジックみたいに書ける。
石川
それが、筆蝕(ひっしょく)というものです。

筆に入る力の具合を大きく分ければ、
深さと、速度と、それから角度。
糸井
ああ、筆がどう入ったかということですね。
石川
そうそう、どういう角度で接してるかです。

深さ、速度、角度の三つの関数が展開して、
ひとつのドラマが生まれてくるわけです。

そのドラマを見ることが、書を見るということ。

指でなぞってみれば、いろんなことが見えてくる。

筆を持って、同じようになぞってみれば、
これを臨書と言いますが、
誰もが、さらに細部にわたってリアルに
書を見られるようになりますよ。
糸井
書くように見る、ということですね。
石川
絵の場合は、それが不可能ですよね。

どの順番で描いたか、わかりませんから。

だけど、書では筆づかいは再現できるんですよ。

臨書をすれば、筆がどういう角度で入って、
どういう速度で、どのぐらいの力で、
どう回っていったかということまでわかります。

筆の具合から、
空海が何を考えていたかが浮かび上がってきたり。

「あれ、こんなとこで引っ掛かってら」みたいな。
糸井
結果を追いかけることで、
動機に推理がいっていますね。
石川
そうそう、そうそう。
糸井
順番どおりに追いかけられるって、
絵にはできませんね。

漢字の書き順さえわかっていれば、
みんな追いかけられる。
石川
そうです。

だから、書ほど易しいものはない。

書は、断簡零墨(だんかんれいぼく)といって、
一字だけでも、あるいは、
完全な一字でなくても大事にされます。

筆画から、その書きぶりが蘇りますから、
読めなくても、見えるわけです。
糸井
読めないことには、自信があります(笑)。

ぼくは、読もうとしなかったから、
石川さんの言葉が沁みたんだと思います。

そして、三つ目の理由がありますね。
石川
三つ目は、糸井さんもおっしゃいましたけど、
美術のように見ないこと。

長いだとか、短いだとかね、
あるいは太いだとか、細いだとか、
もちろんそうなんだけど、
時間的な要素があるわけです。

例えば、細い文字とひとくくりにしたって、
ゆっくり、長い時間をかけて書いているのか、
それとも、さっと文字を書いているのか。

それは、全然違うわけです。
糸井
ああ、そうか。

形で見ないということですね。
石川
形で見ないで、過程で見るということ。

形っていうのは、結果ですから。

文字をなぞってみて、そのプロセスを追っかけてみたら、
ものすごくよくわかりますよ。

書は、プロセスを見てください。
糸井
どうしても形で見てしまいますよね。

ちなみに、展示されている作品の
途中から見てもいいわけですよね。
石川
そうです、そうそう。

もう、一字だけでもいいぐらい。
糸井
切れ端でも、大丈夫ですか。
石川
切れ端でもいいです。

そんなわかりやすいもの、
他にはないでしょう?
糸井
なんか、ものすごくわかりやすくなった気がします。

で、ぼくは、そこまで教えていただいたのに、
「書けない!」って思っているんですよ。

でも、同時に、書いてみたいという気持ちにもなります。
石川九楊さん直伝 書の見方の基本

一 上手いか、下手かと考えず、
  良いか、悪いかで見る。
二 何と書いてあるかではなく、
  どのように書いてあるか。
三 形で見ない。過程で見る。
(つづきます)