書くことの尽きない仲間たち 車で気仙沼まで行く。東京~福島~宮城 2018車 - ほぼ日刊イトイ新聞
浅生鴨
2018.03.10

ただ受け入れたいと思っている

東北へ向かう旅の車に、僕はまだ乗り込めていない。
きっと先を行く三人は、道中わいわいと騒ぎながら、
あるいは真剣なやり取りをしながら、
昨日一日、ときには楽しくときには冷静に、
あれから七年目の東北を見つめただろう。

一歩遅れて参加する僕はといえば、
今のところまだ何も体験していないので、
何かこれという新たな発見があったわけでもなく、
もしかすると、他の三人とはまるで違うことを
考えているかも知れない。

正直に言う。
実は、ゆるくて笑いに溢れた旅になるのだろうという
予感とともに、少しずつ不安も強くなっている。

昨日ピョンチャンパラリンピックが開幕した。
東京に一人残ったのは、その仕事があったからだ。
だから僕は、開会式の中継を見ながら、
ときどき東北のことを考える、そんな時間を過ごしていた。

障害のあるかわいそうな人たちが、
逆境にも負けずがんばっている。
パラスポーツは、
そんなイメージでメディアに取り上げられることが多い。
その反対に、
彼らはかわいそうな人たちなんかじゃないのだから、
もっと一般のスポーツとして観戦しなきゃいけない
という声を上げる人たちも、それほど数は
多くないにしても、やっぱりいる。

僕はいつもそのどちらの声にも、
どことない違和感を覚えている。
苦労や不便さをことさらに強調するのではなく、
すごさや強さを無駄に煽り立てるのでもなく、
ただ目の前にいる人たちを、そのまま受け入れることは
できないだろうかと、ふと思う。
だからといって、それならどう接すればいいのかと
尋ねられると、たぶん僕も答えに詰まるだろう。
結局のところ、人によってそれぞれなのだという
身も蓋もない結論しか、僕には出せない。
人は自分の見たいようにしかものごとを見ないのだし、
たぶん僕自身だって、僕が見たいように
ものごとを見ているのだから。

怒りや悲しみといったものであれ、
希望や喜びといったものであれ、
ものごとを、ある一定の型にはめ込んで見ようとする力の
強さに逆らうことは難しい。
こう見なければならないという自分勝手な思い込みは、
僕たちから現実を隠してしまう。
だからこそ僕は、東北への旅に不安を感じているのだ。

自分でも気づかないまま、自分の見たいように見る。
あの日、大きな被害に遭った人たちに対して、
自分がそうなってしまうことを僕は恐れている。
僕たちは、三月十一日という、
本当なら心静かに鎮魂を願う日に、
わざわざその場へ行こうとしている。
だからこそ、僕が思い込みで発する言葉が
彼らの心の傷に触れてしまわないだろうか、
嫌な記憶を呼び醒ましはしないだろうかと緊張する。

七年前から連なる様々なできごとに勝手な音楽をつけて、
必要以上に悲しく、あるいは無駄に恐ろしく見せようする
メディアの手法にはうんざりするし、だからといって、
まるで何ごともなかったかのように明るく振る舞い、
ただ希望や未来のことばかりを口にするのも、
やっぱりどこかに嘘があるように思う。

当たり前なのだけれども、人によって、場所によって、
立場によって、感じてきたこと、感じていることは
それぞれ違っている。
きっと一緒になって大笑いをすることもあるだろうし、
しんみりとした話を聞くこともあるだろう。
だから、僕にできることは、
たぶん解釈をしないということなのかも知れない。
その場に立ち、見聞きするものをそのまま受け入れる。
何もつけ加えることなく、ただ受け入れる。
そうすることで、ようやく僕にも見えてくるものが
あるような気がしている。

まあ、実際に行ってみれば、こんな不安は
まったくの杞憂なのかも知れないのだけれども。

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