書くことの尽きない仲間たち 車で気仙沼まで行く。東京~福島~宮城 2018車 - ほぼ日刊イトイ新聞
永田泰大
2018.03.10

国道6号線のグラデーション。

まず、旅はたのしくて、
どんなことよりそれを先に書いておきたいと思う。

朝、大きな荷物を抱えた友だちと、
にやにや笑いを噛み殺しながら
マクドナルドで落ち合って、
互いの出で立ちをからかい合ったりするのは、
もう、どんなものにも代え難い、
とてもくだらないしあわせだ。
レンタカーの清潔なよそよそしさ。
高速道路に乗った瞬間の
旅がぐんと加速するような高揚感。
東京ドームに関する雑談。
スカイツリーにまつわる冗談。
ここにいない誰かについての、
敬意をあべこべにしたからかい。
渋滞、空腹、サービスエリア。
交代、ワイパー、見知らぬ風景。
「あぁ、あいつも来てればなぁ」って、
本当にぼくも同感だよ、
それだけが残念でしょうがないよ。

福島県の広野町で高速をおりて国道6号線を北上する。
国道6号線はおそらくぼくだけでなく
たくさんの人にとって象徴的な道路だ。

東京からはじまり仙台へ至る国道6号線は、
福島県内に限れば太平洋側の端っこを
海に沿って縫っていくように南北へ貫く。
東日本大震災が起こったあの日、
誰も予想しなかった津波は
福島県の海沿いの地域を襲って、
その浸水の境界のようになったのが国道6号線だった。
この7年の間に何度か福島を取材したとき、
「6号を超えて来たからね」とか
「国道まで水が来たんだから」
という言い回しをよく耳にした。
そして、福島第一原子力発電所も
国道6号線のそばにある。

震災後、国道6号線は通行が規制された。
福島第一原子力発電所事故によって
帰還が困難とされた地域を通る6号線を
自動車が自由に行き来できるようになったのは
2014年の9月からで、
歩行者やバイクはいまも通行できない。

ぼくは、2011年に参加したボランティア活動のとき、
通行規制中の6号を何度か通ることがあった。
そのころは物々しい関門で書類を提出し、
車の中でも防護服を着ていた。
規制のあった区域ではないが、
2012年に南相馬を案内してもらったときも
国道6号線を通ってあちこちへ行った。
2013年、避難指示が解除された富岡町で
ボランティアに参加したときも6号を通ったし、
2015年に福島第一原子力発電所を見学したときも
バスに乗って国道6号線を通った。

まったく意識してなかったのだけれど、
ぼくの国道6号線の記憶は、
震災からの年月によって
何層にもレイヤー分けされているようだ。
それを自覚したのは、今日、国道6号を運転しながら、
古賀さんと泰延さんに、
自分がつらつらと解説をしはじめたときだ。

「この家電量販店は、
オープンした直後に震災が起こったんですよ。
だから、看板も壁もきれいなままなんです」
「ああ、ここのゲームセンターは、
当時からずっとこのままだ」
「ここの川には鮭がのぼってくるんです。
獲る人がいないから、数がすごく増えてるみたい」

まるで「詳しい人」みたいに
国道6号線の解説をする自分がちょっと不思議で、
思わずふたりに「変だね、俺」と照れ隠しに言った。

東京方面から入り、仙台方面に向けて車を走らせた。
つまり、南から北へ、海に沿って。
ちょうど真ん中に帰還困難区域がある。
それは、復興のグラデーションを見る思いだった。

楢葉町、富岡町と、帰還困難区域に近づくに連れて、
徐々に壊れたままの建物や通行止めの柵が増えていく。
福島第一原子力発電所がある大熊町と双葉町の堺で
もっとも町の活性は低く、
そこから遠ざかって、
浪江町、南相馬と進むと徐々に
ガソリンスタンドや大手チェーン店の看板が増え、
車から見る風景は街道沿いよくある感じに転じていく。

そしてぼくはそのグラデーションの中に、
少しずつ進む復興の具合を感じ取る。
ああ、こんなにお店が増えた。
以前はこのへんの田んぼは手が入ってなかったのに。
LEDの明るい看板が増えてる。
なにしろ車が増えたよ、
以前はトラックと作業員の乗ったバスばかりだった。
ああ、坂を越えたら、すっかりふつうの町だ。

ぼくは思う。
震災からの復興は、細やかに、少しずつ、
いろんなかたちで進んでいくものだ。
ここからここまでは進んだが、
こことここは進んでないとか、
地図を色分けするようにパキッと切り替わるものではない。
もっと入り組んでいて、刻々と変化して、
微妙で、いろんな見方ができる。
しかし、報道や資料からそれを読み取ろうとするとき、
どうしてもぼくらは色分けされた地図を見てしまう。
線引きして論じようとすることもある。
そのとき、こぼれ落ちるように、
さまざまな誤解がぽろぽろと生じているように思う。
とりわけ、そこにたくさんの人がいて、
それぞれの生活を送っているという当たり前のことが、
便宜上の区分に塗り潰されてしまう気がする。

現地に来て、しっかり見ると、
そういうことがよくわかる。

具体的にはっきりと進展を感じたのは、
富岡町のヨークベニマルというスーパーで、
もっと細かくいうとそこの駐車場だ。
避難指示が解除されて
富岡町に人が入れるようになったとき、
ぼくはそこで遺品や遺骨を捜索する
ボランティア活動に参加した。
その集合場所が、ヨークベニマル富岡店の駐車場だった。

2013年の夏、ひとりでレンタカーを運転して
少し早めにそこに着いたとき、
こんなところにほんとに
人が集まるのかなと不安に感じたことを憶えている。
駐車場のアスファルトはひび割れ、
そこから夏の雑草がにょきにょきと伸びていた。
やがて集合時間が来ると、
ちゃんと6号線の南北から車が集まってきたけれど。

いま車から見るその駐車場にもうひび割れはなく、
スーパーで今日の買い物をする人たちが
当たり前に車を停めている。
ただの、ふつうの、スーパーの駐車場を見ながら、
ぼくは、ああ、ちょっとずつだけど、
よくなっているんだなあ、と感慨深く思う。

それを古賀さんと泰延さんに説明しかけて、
うまく話せず曖昧に終わらせる。
なぜなら、それはただのスーパーの駐車場だから、
復興の手応えのようなものが感じられることが
うまく伝わりづらい。

そして、その考えの延長に、ぼくは気づく。
ぼくは、この国道6号線のまわりに、
「知ってる場所」が多いのだ。
6号線の周辺だけではないのかもしれない。
この7年の間、ぼくは福島のあちこちを訪れて、
結果的に「知ってる場所」が増えた。
それが、福島について考える時間を増やし、
抱く感慨をより深くしている。

身もふたもない言い方をすれば、
知ってる場所が多いほど、
そこへの思いは強くなる。
知ってる人がいる場所は、
強く思いを馳せられる場所だ。
はっきりしたことは言えないけれど、
ひとつひとつ議論していくと
ことごとく袋小路にはまるようなことも、
知ってる人や知ってる場所を増やすことで
よい方向に進めていくことが
できるのではないかとぼくは思う。

そんなことを、曖昧に感じながら、
国道6号線を北へ進んだ。
もう、確実に雨、という予報だったのに、
雨は徐々に止んで、
行く先の空の端は雲が切れていた。
(天気をちょうどよくする上司のちからに違いない)

無邪気に出発した旅だけれど、
6号を行くときはさすがに3人とも
ちょっと違ったモードになっていて、
とりわけ泰延さんは、
軽くショックを受けていたようだった。

彼は言った。
「6年前にこのへんを通ったんですけど、
当時とまったく変わってないところがありますね」
たしかに、帰還困難区域は、
7年間、放置されたままの建物も多い。

言われてぼくは、泰延さんが
自分とむしろ反対の感想を持ったことを興味深く感じる。
そして、ぼくは逆のことを感じましたよ、
ちょっとずつ変わってるなと思ったんです、と彼に言う。
泰延さんもぼくのとらえ方をおもしろく感じたようで、
その違いについて古賀さんを交えて3人で少し話す。

6年前とまったく変わらぬ風景。
2年前とは少しずつ変わってきた光景。
どちらも正しくて、
どちらかが間違っているようなことではない。
同じものを、同じときに見ても、
抱える感情はそれぞれに異なる。
たとえ同じ車の中で同じ冗談にげらげら笑うような
近しい感覚や価値観を持ってさえ、
同じ景色を見ても感じ取る部分が異なる。
それはもう、当たり前のことだと思う。
人と人には必ず差異がある。
仮にその差異を互いに非難し合うと決めたら、
その作業は終わりなく続くことになるだろう。

ぼくらは同じ車に乗って、同じ風景を見て、
わあ、変わらないねと言い、
そうだねぇと相づちを打ち、
ああ、ずいぶん変わったと言って、
そうですねと相づちを打つ。

そして、日はゆっくりと暮れていき、
同じようにぼくらは晩ご飯のことを考える。
絶対においしいものを食べようと一致し、
相馬のお寿司屋さんに電話して席を予約する。
カウンターの席に同じように並んで座り、
同じコハダに舌鼓を打ち、
同じワサビ巻が辛くて辛くて
同じように涙を流す。ほんとに辛かった。
(ワサビに砂糖を混ぜると
ものすごく辛くなるの、知ってました?)

それぞれ違うことと、同じこと。
細かい部分で異なるけど、大きくは同じこと。
全体として相容れないように見えるけど、
個々に見つめていくとあまり変わらないこと。
いろんなことは入り組んでいて、
全体的になだらかな模様になっている。

国道6号線のグラデーション。
こうして旅をしてきてよかったと早くも確信している。
考えることにはきりがない。
問題も差異も解釈も山ほどあるに決まってる。
けれども、こうして実際に旅して来ると、
雨が止んだり霧が出たりお腹が空いたりして、
つぎの動きが気持ちよく定まったりする。

だからみんなで、福島に、東北に来ようよ、
なんて安易な誘いはできないけれど、
動いてみることの明快さは万人におすすめできる。

「あぁ、あいつも来てればなぁ」は、
ぼくらの場合、具体的にいうと、
燃え殻さんに友だちとして言っているんだけど、
旅の恥はかき捨てということで、
あえて大きな話に広げてしまうなら、
これを読んでいるあなたにも言えるかもしれない。
「あぁ、あなたも来てればなぁ」と。

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