小林秀雄のあはれといふこと

しみじみとした趣に満ちた言葉の国日本。
そんな国のいとおもしろき言の葉を一つ一つ採取し、
深く味わい尽くしていく。
それがこの項の主な趣向である。

其の四拾弐・・・・記憶

三島由紀夫の半自伝的小説『仮面の告白』に触れたのは
いつのことだろう。
若き日の私は、「産湯に使わされたタライのふち」を
内側から見た記憶が確かにあるという記述に、
衝撃を受けた。
それから三島美学にのめり込むことになる。
だが今にして思う。
早熟の天才の名を欲しいままにした男の記憶が、
そこを起点としてよいのだろうかと。

小林先生と弟子の北小岩くんは、
ある大物を訪問するために東海道本線に揺られていた。

小林 「今日お会いする中出郁さんはな、
 俺の遠い親戚筋にあたるんや」
弟子 「男性ですよね。
 だけど『いく』というのは
 ちょっと女性的な感じのする名前ですね」
小林 「一瞬そう思うが、実際これほど男らしい名前はないで」
弟子 「中出郁さん。
 中でいく・・。中でイク・・。
 たっ、確かに!!」
小林 「父君が威風堂々とした日本男児に育つよう、
 熟考の末に命名されたんや。
 中出さんは今年で69歳やが、
 三島由紀夫を生涯のライバルと目している」
弟子 「ということは小説家なのですね」
小林 「違う。
 沼津でふんどしを作っている。
 つまりふんどし職人や」
弟子 「ふんどし職人の方が
 なぜ三島さんのライバルなのですか?」
小林 「つまりな、記憶力が尋常やない。
 三島の先を行く男や。
 それを自負しておられるから沼津に住んでいる。
 東海道本線で三島の先は沼津やからな」
沼津駅から徒歩1分。
鯵の開きが並ぶ魚屋さんの裏に、中出氏の仕事場はある。
小林 「こんにちは。ごぶさたしております」
中出 「おっ、秀雄くんか。まあ上がってくれたまえ」
中出氏は創作中のふんどしを染めながらいう。
小林 「今日は中出さんの最初の記憶について
 おうかがいしにきました」
中出 「はっきりいっておきますが、
 三島の記憶など私からみれば貧弱な屁のようなものです。
 彼は生後すぐに使ったタライの記憶がせいぜいですが、
 私にはそれ以前の記憶があります」
弟子 「と申しますと?」
中出 「精子の時の記憶があるのです」
弟子 「なんと!」
中出 「父の睾丸で泳いでいたのが最初の記憶です。
 睾丸のほどよい揺れはゆりかごのようでした。
 だが、その日は突然来ました。
 みんなでお医者さんごっこをして遊んでいると、
 大地震が起きたのです。
 前へ後ろへ前へ後ろへと、
 ガンガン壁に打ちつけられました。
 気を失いかけたその時です。
 『死ぬ!』という絶叫が聞こえ、
 マグマのようなものに吹き飛ばされました。
 こっちの方が死ぬ!と思いました」
弟子 「それからどうされましたか?」
中出 「3億匹の友だちと生温かい沼地に投げ出されました。
 私は前方にいたので助かりましたが、
 後方にいた2億匹はその後すぐ外に
 押し出されてしまいました。
 『箱、とってよ〜』という気だるい声が聞こえ、
 白い大きなものが入口に押しつけられましたから、
 彼らは拭かれ死にしてしまったのでしょう」
小林 「それでもまだ1億匹以上残っとるわけや。
 地獄やなかったですか?
 日本の総人口で命がけのマラソンするようなもんやから」
中出 「受精できるのがたった1匹ということを
 知らなかったので、
 ギスギスした雰囲気はありませんでした。
 私は最初、道を間違え
 酸っぱ苦い匂いのする方向に進んでしまいました。
 その穴に入りかけた時、誰かが叫びました。
 『そこは尿道だ!』と。
 もし彼が教えてくれなければ、
 私はおしっこといっしょに流され死んでいたでしょう」
弟子 「危機一髪でしたね」
中出 「それからは励ましあい必死で泳ぎました。
 ですがだいぶ進んだところで前を泳いでいたヤツが
 こちらを振り返り
 『ここから先にはいかせねえ!俺が受精するんだ』
 といって竹槍で襲いかかってきたのです。
 ヤツは睾丸の中で
 『家庭の医学』みたいな本を読んでいたので、
 1匹だけが生き延びられることを知っていたのですね」
弟子 「竹槍まで用意しているとは恐ろしい男です。
 パニックにはなりませんでしたか?」
中出 「そこからはもう思い出したくないほどの修羅場です。
 お互い殴る蹴る。
 といっても精子には手足がないので
 頭突きで戦うか、尻尾で打ったり
 巻きつけて首をしめたりするしかありません」
弟子 「中出さんはどうされたのですか?」
中出 「固くてでかかったんですよ。
 いや、そこじゃなくて頭がです。
 私はなみいる精子をヘッドバットで倒し進みました。
 ついにゴールだと思った時でした。
 竹槍で前をふさがれ、
 ヤツが卵に頭を突っ込もうとしました。
 先に入れられたら終わりです。
 とっさに叫びました。
 『あそこでイイ女が股をおっぴろげている!』と。
 ヤツは思わずそちらを向いてしまい、
 そのすきに卵に入り込んだのです」
弟子 「そいつはどうしました?」
中出 「『ファック・ユー』といって中指を突きたてたので、
 こちらは親指を人差し指と中指の間から
 グイッと出し手を振りました。
 膜は閉じられ3億匹の友たちに永遠の別れを告げました。
 苦しい戦いでした。
 人には子宮回帰願望があるといわれますが、
 そこに至るまでが黙示録でしたから、
 私にはむしろ睾丸回帰願望がありますね」
小林 「そうやな。
 人はちんちんから飛び出した時から戦いの連続や。
 睾丸でぶらぶらしていた時が
 一番幸せだったのかもしれんな。
 中出さん、正月早々貴重な話をありがとうございました」
小林先生と北小岩くんは、
東京行き最終の東海道本線に飛び乗った。
弟子 「先生、またいつかその先のお話も
 おうかがいしたいですね。
 ところで、もし三島由紀夫さんが
 生前に中出さんの話を聞いていたら
 どうしていたでしょうか?」
小林 「ガラス細工のようにデリケートな人や。
 きっと自分より記憶の優れた男に遭遇したショックで
 筆を折っていただろうな」

決してそんなことはないだろう。
もし三島がこの話を聞いても、
まったく相手にしないだけだと思う。

2001-01-11-THU

BACK
戻る