小林秀雄のあはれといふこと

しみじみとした趣に満ちた言葉の国日本。
そんな国のいとおもしろき言の葉を一つ一つ採取し、
深く味わい尽くしていく。
それがこの項の主な趣向である。


其の百四拾・・・疽


ドワワッ!
「ああ、崩れてしまいました。
 先生の書斎には、くさぐさの書物がございます。
 とはいえ、おエロな関係が大半を占めますが」

弟子の北小岩くんは、
蔵書を気の向くままに書見してよいことになっている。
本日の友を探そうと書斎をまさぐっているうちに、
山積された書籍が、土石流のようになってしまったのだ。

「むっ、これは?」

谷崎潤一郎全集とともに流れてきた
古びた書の背表紙を凝視した北小岩くん。
怪訝そうにつぶやいた。

「『人陰疽』という書であります。
 人面疽はかなり昔にひもときましたが、
 はて『人陰疽』とは?奇奇妙妙でございます」

明治初期に書かれたノンフィクション。
著者は股崎濡一郎。

「え〜と、
 『江戸時代中頃には、
  文献などの記録から
  すべて削除されているが、
  エロ時代と呼ばれる数年があった』。
 小林先生からうかがって、
 よく存じている事どもですね。
 ふむふむ。
 『その時期に大流行した奇病があり、
  それは‥‥』。
 ええっ!!」

「ほほう。
 希覯本に目をつけたんか。
 さすがに俺の愛弟子やな」

知らぬ間に、師が背後で爪先立ちしていた。
古本屋で20円で購入したエロ本を手にしている。

北小岩 「『人陰疽』という
 世にも怖ろしい腫瘍が広まったのですね」
小林 「いや、いちがいに怖ろしいとは言えんな。
 確かに人面疽は怖ろしい。
 あんなものが夜中に目を開けて、
 睨まれでもしたらたまらんわ。
 だがな、こいつはちょいとわけが違う。
 男の体にしかできなかったそうや」
北小岩 「女性のその部分と見分けがつかないほど、
 酷似していたと記されておりますが」
小林 「そうなんや。
 形状も構造もそのものずばりや。
 驚くべきことに、
 月のモノまであったという。
 人面だと怯えるのに、
 アソコだと男は
 ついウキウキしてしまうんやな。
 こぞって腰巻のようなものを着けて
 隠したんや」
北小岩 「容易に想像できますが、
 一人こっそりまくったりして
 楽しんだのでしょうね。
 そのようなものができますと、
 いじくりまわしたり、
 いやらしいことに使おうとする輩が
 出てこなかったのでしょうか」
小林 「不埒なことをすると、
 スッと消えてしまって
 二度と現れなかったそうや。
 喪失した男はがっくりしてな。
 ショックで不能になる野郎も多数でた。
 病としては、
 そっちの方がよっぽど実害はあったな」
北小岩 「簡潔に言えば
 腫瘍にしか過ぎないと思うのですが、
 機能を失う状態にまで
 追い込まれてしまうのですか」
小林 「まあ男にとっては、唯一無二の宝や。
 男とは、それほど弱い生き物と
 言うこっちゃな」

二人は虚空を見つめた。
静寂なる時が流れていった。
とはいえこの人たちのことだ。
頭の中は、『人陰疽』ができてくれないかと
祈っていることだろう。

江戸時代中期に流行したといわれる奇妙なデキ物。
男たちはそれを過大に評価し、慈しんだ。
月のモノがあったといっても、
月ごとに腫瘍が悪化し、膿んで出血しただけのことだ。
黒死病などとは異なり、男がいかにその部分に弱く、
操られてしまっている阿呆であるかということを、
後世に伝える病にすぎないであろう。

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2005-12-29-THU

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