娯楽映画の運命。
真夏の深夜の『キリクと魔女』座談会より。

第3回
和解できる発想ってなんだろう?

糸井 同じ職業の人が
「いいな」と言う時には、いろいろなことを
いっぺんに見ているのだと思うんです。
今は主に物語について
話してくださったのですが、画面の効果、
これについても、お話をいただけますか?
高畑 画面でご覧になったらわかるように、
オスロさんというのは、
平面でやっている人なんです。

この映画の前に
オスロさんが作ったものはもっとそうで、
シルエットを利用して、
かなりのものを作ったりしてたんですけど、
そういうものを、じつにうまく生かす。

画面の中でも、非常にいい画面が
いっぱいあったように思うんですけど、
ものによっては、自分も職業人だから、
「違うほうがよかったんじゃないか」
と思うところは、ないわけではないですね。
やっぱり自分も作り手ですから。

だけど、平面的で装飾的な美しさとか、
そういうものが持っている力とかが、日本では、
すっかり忘れられてしまっているんです。


みんな、すごいリアルに
なっちゃっているでしょう。まるで、
一生懸命、写真に近づけているように。
もちろん、日本のアニメがそうなったのには、
それなりに理由があるんですけれど。
糸井 いま、高畑さんがおっしゃったように、
日本で、アニメーションが
リアルになっている理由って、なんですか?
高畑 日本では、それは宮崎作品も含めて、
画面の中に有無を言わさず
人を連れこむことによって、
作り手は「どうだい?」と言うわけです。

しかし、『キリク』のような作品は、
キリクのほうに、
こちらから入っていかなければならない。
向こうが押し寄せてくるわけではない。
見る側は、キリクとともに世界に入って、
ハラハラして、うまくいくんだろうかと
思いながら、映画を経験するんですね。

ぼくは、ハラハラとドキドキは、
いつも違うものだと思うんですよ。
日本のアニメが、今絶頂に達しているのが、
「ドキドキ」のほうでしょう。
主人公のすぐそばにいって、
どうなるかわからない、
シチュエーションもわからない、

闇の中を主人公と一緒に進むと、
突然、敵がやってくる。
一瞬、びっくりするんですけど、
見事に倒してしまったりする……。
これが、日本のアニメーションですし、
流行っていて、今、強く人に
アピールしているものなんです。
ドキドキしっぱなし。



『キリク』の画面は、
全部が平面的で、
断面図が映っているじゃないですか。
だから、すべてを把握できているし、
ドキドキはない。
ところが、
「キリクは、魔女をうまくかわして
 やっていけるのだろうか」
という「ハラハラ」は、味わえると思うんですね。
ハラハラしているというのは、
まだ判断力が働いている証拠ですから。
「ドキドキ」は、どこから何が来るか
わからないわけですからね。

『キリク』の平面性は、
人をちょっと突き放しますから、
中に、有無を言わさず連れていかれることはない。
狙いは、そこにあると思うんです。
考える余地を、
ちょっと観客の側に残すから。
糸井 だから、追っている魔女の方の気持ちも、
わかりながら見られるんだ。
高畑 そうですね。
そのほうが、一方的にはならない。
糸井 つまり、アメリカ映画を見ていると、
敵は無限に悪いヤツになるわけで。
ところが、『キリク』の場合は、
落ち着いて見られるかわりに、
両方の痛さが見えてくるんですね。
それは、平面的な構成のせいということも、
大いにあったわけですか……。
高畑 はい。
日本のアニメーションは、
基本的には、「ドキドキ」で
最高峰になっていったわけです。
連れこんでしまって、見る人に
主人公と同じような気持ちを味わせる。

そうなると、背景は
どんどんリアルにならざるをえないんです。
「客観的に、おもしろいね」
だなんて言っていられないですよ。
そこにいないといけないわけだし、
その目で世界を見せるわけですから、
リアルにならざるをえないじゃないですか。


それでどんどん、
日本のアニメというのは、
リアルになっていったんです。
糸井 日本で言うと絵巻物の伝統なんかに、
近い発想ですね、『キリク』の手法は。
高畑 ええ。
『キリクと魔女』には、
「この種類のおもしろさは、日本になかった」
というたのしみがあるんだと思うんですね。
「こういう、違う娯楽が、あったんだ」と、
見終わった人は感じるのではないでしょうか。

たとえば、映画のなかで、
キリクに対して、魔女が意地悪をする。
キリクはお母さんに聞くんですね。
「なぜ、魔女は意地悪をするの?」
お母さんは、
「意地悪するのは魔女だけじゃないよ」
と答えるんですね。ここがおもしろい。

「世の中、火が燃えたり
 水がぬらしたりするのと同じように、
 こっちが悪いことをしないのに
 意地の悪いことをする人はいるもんだ。
 そうやって覚えておきなさい」

お母さん、徹底して現実主義なんですよ。
「意地悪も、計算に入れておけよ」と。

あの人はすごい、なんて思ってつきあって、
挫折するより、ずっといいと思うんです。



「ぼくは行ける!」とキリクが言いだしても、
「ダメだね」とお母さんは返事する。
キリクが、「こういったらどう?」と
いくら考えて言っても、ぜんぶダメだと言う。
あのシーンは、
お母さんの「ダメだ」で終わるんです。
「子どもなら、とことん考えさせればいい。
 それで、必要だったら助けをだす」
そういう考えなんですよ。

魔女の謎かけも、おもしろいですよね。
世の中が難しくなりすぎているものだから、
今は、因果関係、
原因があって結果がある、
ということを忘れていて、
アニメーションの制作者なんかでも、
複雑怪奇な様相を
作品の中でも作りたがっていまして……。
ものすごく、世界を複雑にしてしまうんです。

ところが、キリクの世界はすごく単純ですよね。
かならず、原因があって、結果がある。
魔女の意地悪にも原因があるから、
それをとりのぞけば、魔女じゃなくなる……。
そういう発想って、和解できる発想ですよね。
あるいは、許すことができる考え。

(つづきます)

2003-08-21-THU

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