第5回 ほんとうにいい空間でした。
永田 男子体操の表彰式、
塚原選手が金メダルをもらうときに
「塚原に金メダルをかけてあげたかった」
っておっしゃってましたよね。
刈屋 はい。塚原直也選手ですね。
やっぱり直也くんが、
日本がメダルをとれずに苦しかった時代を
ひとりで支えたというところがあるんです。
日本が王座から転落して
なんとかしようとあがいているときに、
国際的なスターだった
塚原光男の息子が出てきて、
世界選手権で銀メダルをとったりとか、
メダルはとれなかったですけど
オリンピックでそれに近い活躍をした。
「体操ニッポンはまだまだいけるぞ」
というのを国際的にアピールできたのは
彼の存在が大きかったんですよ。
永田 ああ、なるほど。
刈屋 いざ、アテネに来たときには、
どちらかというと彼の力は
全盛期よりちょっと落ちていた。
その彼を新しい世代が支えて
なおかつ直也くんの経験が活きたという意味で
やっぱりファンは
彼に金メダルがかかる瞬間を
見たかったんじゃないかと思ったんです。
永田 しかもそれは、昔からのファンだけじゃなくて
ぼくらにわかファンもそう感じたんですよ。
刈屋さんの説明を聞いてると
その日だけのにわかファンなのに
「そうなんだよ!」
って言いたくなるんですよ(笑)。
刈屋 (笑)
永田 それまでの日本の苦労なんて知らないくせに、
「いや、塚原はね、金メダルのないときにね」
って、思わずつぎの日に
説明したくなっちゃう(笑)。
でも、それって、かんちがいじゃなくて、
あの瞬間だけで、ぜんぶを伝えてもらって
「おれ、ほんとうにそう思ってるから
 言ってもおかしくないよ?」
くらいの思いこみになっちゃうっていうか。
そういう放送だったなって思うんですよね。
刈屋 やっぱり、ああいう中継のときっていうのは、
いかに見ている人の心と共鳴していくか
ということが重要になってくるんですね。
それは、昔の状況を知ってる人の
「そうだよ!」っていう記憶を呼び戻すような
記憶の共有ができるかということと、
初めて見た人にも
「じつはこういうことがあるんですよ」
というエピソードとして
いかに印象的に伝えられるかという、
その部分が重要になってくるんだろうなと。
永田 両方が必要なんですね。
刈屋 そうなんです。
しかも、あれは生放送だったというのが
大きかったと思います。
やっぱり、競技も実況も、編集されると
どうしても伝わりきらない部分が
出てきてしまいますから。
永田 今日、おっしゃったことにしても
ダイジェスト版には入っていないことが
やっぱりいっぱいありますし。
刈屋 そうですね。
永田 やっぱりあの
「栄光への架け橋だ」という
着地のシーンだけではないですよね。
刈屋 そうですね、そこに至るまでの過程ですよね。
永田 長かったですよね、あの日は。
けっきょく、最初の床が始まってからだと‥‥。
刈屋 3時間20分くらいかかりましたね。
永田 そっからほんとに、
コールマンを取る瞬間まで‥‥。
刈屋 もう、いろんなことを考えながら(笑)。
永田 で、もちろん応援する気持ちもありつつ、
アナウンサーとしての気持ちもありつつ、
っていうふうな3時間20分。
刈屋 はい。
永田 すごいなあ、それ。
‥‥すいません、2年前の話を
こんなに熱くしてしまいましたが(笑)。
刈屋 あ、いえいえ(笑)。
でも、しっかり覚えてますね。
永田 ぼくもいま、話しながら
こんなに覚えてるもんなんだなって
自分で思ったんですけど(笑)。
刈屋 なんとも言えない空気でしたね、
あの日の、あの会場は‥‥。
べつに超満員でもないんですよ。
8割くらいしか入ってないんですけど
なんとも言えない空間‥‥。
ピンク色とまでは言いませんけど
ほんとうにこう、パアッと、
ほんとうにいい空間でした。
あの空間は二度と味わえないのかなって。
永田 観ている側としても
奇跡に立ち会ったなあ、
っていうくらいの感じがありました。
刈屋 いやあ、ぼくも
NHKでは23年めになりますけど
いままでで最高の瞬間ですし、
ぼくがNHKのアナウンサーになりたいと思った
夢がかなった瞬間です。
ああいうオリンピックの最高の舞台で
最高の勝負で日本が勝つ瞬間を
中継したいというのが
NHKのアナウンサーになったときの夢ですから。
というか、
NHKのアナウンサーになる動機でしたから。
だからもうすごく、
ほんとうになんとも言えない‥‥
疲れたときにお風呂に
「ふぅ〜」って入ったときに
「はぁ〜」って放心するような気持ちよさ。
ほぼあれと同じ状態ですよね。
しゃべり終わった後っていうのは。
いやあ、よかったなあっていう。

2006-06-09-FRI

(C)HOBO NIKKAN ITOI SHINBUN