「ほぼ日の塾」を見学した
朝日新聞の田中志織さんが、
レポートを書いてくださいました。

縁あって、「ほぼ日の塾」のほぼ全日程を見学した、
朝日新聞大阪本社のデスク、田中志織さんが、
「ほぼ日の塾」のレポートを書いてくださいました。
「ほぼ日」の成り立ちからコンテンツの原則を
一日がかりで伝える「ほぼ日の塾 80人クラス」、
そして、実際にコンテンツをつくりながら学ぶ、
「ほぼ日の塾 実践編」。両方を見学した田中さんが
見たもの、感じたこと、そして伝えたいこと。

「ほぼ日の塾」の、見学記のようなもの
朝日新聞大阪本社 編集センター
田中志織

最初に結論を書きます。もし、ほんのちょっぴりでも「ほぼ日の塾」にひかれるものを感じているなら、とにかく申し込むことをお勧めします。わたしは第2期に、「課題を提出しない見学者」として大阪から通いました。募集要項に書いてあった「知りたい人には、伝えたい。」は、びっくりするほど本当でした。ここまで惜しみなく? そこまで率直に? あまりにも濃密で、実はまだ消化し切れていません。

見学記をまとめるつもりで参加したわけではないので、網羅的な内容とは言えないかもしれません(見学記と胸をはって言えないのは、そのためです)。でももしかしたら、それはいいことかもしれません。少しでも塾の雰囲気が伝わることを願って、そして少しでも読んでくださるみなさんの参考になることを願って、いま本当にわたしの中に残っていることだけを書きます。

80人クラスは華やかなオールスター戦

塾の教室でもあるほぼ日のオフィスに向かうとき、おなかがぎゅうっとするほど緊張していました。「どうぞ来てください」というメールを受け取ってはいたけれど、場違いなんじゃないかな、と心配していたのです。

わたしは新聞を編集する仕事をしています。異動で現場を離れた時期もありましたが、通算すると新聞編集者としてのキャリアは15年以上になります。昨年は4回目の年女でした。

受講資格の欄には「自分のやり方や社会での評価が固まりきっていない若い世代の人を中心に選考する」という趣旨のことが書かれていました。「ほぼ日のコンテンツがどうやってつくられるのかを知りたい」と熱望していた点では資格をクリアしていたと思いますが、属性が明らかにストライクゾーンを外れている自覚はありました。

指定された階でエレベーターを降りると、案の定、そこには20代か、せいぜい30代前半にしか見えない「同級生」たちがいました。でも、ありがたいことに自分が浮いている感じはなくて、受付が始まるまでの間、近くにいた初対面の女性と自然に言葉を交わしていました。

見渡してみると、そうした会話は、そこここで生まれているようでした。だれが音頭をとるわけでもなく、受付を待つ列を整えたり、乗組員の方からアナウンスされたことを後から来た人に伝えたり、ということがおこなわれていて、不思議なまとまり感が最初からありました。

そうか、目的が共有されていると、こういう雰囲気になるんだな。

たぶん、前日受け取ったリマインダーメールに書かれていた「せっかくの機会ですからよい時間にしましょう」というメッセージが、心のどこかにあったのだと思います。みんな、にこにこしていました。

午前中のふたコマは、全員一緒に話を聞くスクール形式でした。講師はCFOの篠田真貴子さんと塾長(と名乗ってはいませんでしたが、塾生にとってはそういう存在)の永田泰大さんで、ほぼ日の概略を学びました。「やさしく、つよく、おもしろく」という、ほぼ日ファンにはおなじみのフレーズが繰り返し出てきて、基本的な価値観が共有されていることがよく分かりました。

一方で、とまどいも感じていました。第1期の募集を始めるときに永田さんが書いたあいさつに「ほぼ日刊イトイ新聞は、明確なルールや約束が極端に少ないメディアです」とあって、授業でも同じことを言われました。加えて、決まった形の企画会議やプレゼンはない、とも。

信じがたいことでした。例えば新聞社の場合、通称「赤本」と呼ばれる決まりごと集があって、言葉の使い方や表記、こういう場合はこう扱う、といったルールが細かく決まっています。最新版の赤本は900ページ近くにもなります。毎日「デスク会」という定例の編集会議を数回開いて、記事の内容や紙面づくりの方向性を確認します。

それがない、というのです。

では「ほぼ日らしさ」は一体どこから生まれるんですか?

わたしは、なにかこう、確立されたノウハウやマニュアルに沿って、あるいは精緻なデータ分析に基づいて、コンテンツがつくられているものとばかり思っていたのです。それを教わるつもりだったのです。午前の授業が終わったとき、わたしは少し、ぽかんとしていました。

午後になって、永田さんのほかに3人の講師が登場し、分科会形式で授業が進むと、わたしの混乱は頂点に達しました。

「バルミューダのパンが焼けるまで。」の菅野綾子さん。
「糸井さん、僕を『面接』してください。」の奥野武範さん。「2013年 あんこの旅」の山下哲さん。
そして「メールするからメールしてね 2016」の永田さん。

どのコンテンツからも「ほぼ日らしさ」を感じますが、4人の個性はまったく違いました。おちゃめだったり、とつとつとしていたり、劇場型だったり、淡々としていたり。一方で、言葉は違うけれど同じことを言っているような気もしました。ものごとへのアプローチの仕方も、アウトプットの仕方もそれぞれだけれど、そこにうそはないか、という問いを、いつも意識しているようでした。

分科会が終わり、最後の授業で糸井重里さんが「ほぼ日らしさについて聞かれることがあるけれど、決まりはないんだよね。日によって、答えも違うと思う」と話し始めたとき、正直なところ、わたしは絶望的な気持ちになりました。

糸井さん、わたしは、まさにそれを求めて大阪から来たのです……。

でも話を聞いているうちに、ほんの少し、考えがまとまり始めました。

糸井さんは、たびたびこう言いました。
「ふだん、どう生きるかが出ちゃう」
「ふだんの生き方が問われちゃう」
そして「だから一生懸命に伝えないと。本当に思ったことだけを言わないと」と続けました。

新聞をつくっていても、同じように感じるときはあります。たくさんのニュースを前にして、なにを、どういう言葉で切り取るかに悩むとき。人生観を問われているような気さえします。

システムじゃないんだな。
方程式のようなものを期待して来たこと自体が、そもそもズレていたんだな。

もちろん、霧が晴れるように、とはいきません。もやもやとしたものは残っていました。もっと知りたい、と思いました。見えかけたような気がする「なにか」を、もっとはっきり見たいと思いました。

塾に合わせて休みをとり、泊まりがけで通うことになるので少し迷いましたが、知りたい気持ちがまさって、実践編に申し込むことを決めました。

実践編はストイックな100本ノック

塾生のみんなから少し離れた、教室のうしろの壁際の席が、わたしの定位置でした。課題を提出しない「見学」だったので、できるだけじゃまにならないように選んだ席でしたが、実はここは特等席でした。教室全体の、空気の変化がよく分かるのです。「へええ」とか「なるほど~」とか「???」とかが。

最後列から乗組員のみなさんを観察するのも楽しみのひとつでした。

例えばわたしの右側には、スライドを映すモニターやマイクの音量を管理している男性乗組員がいました。かれは、永田さんがこれから話そうとしていることを予測しながら、モニターに映し出すほぼ日のページを変えているようでした。「よっ、よっ、これかな、こっちかな」。そんなひとりごとが時々聞こえてきました。

あるとき、たずねてみました。

モニターの画面、永田さんの先回りをして変えていましたよね?
「あ、そうですね。そういうふうに仕事ができるから、ほぼ日は楽しいんですよね」
と、言うと? 
「転職してきたんですけど、前の会社では、なにかやろうとすると、カネになるのかってまず言われちゃって。でもほぼ日は、自分がいいと思うことはなんでもやれるし、ほかのみんなもそんな感じなんです」

ああ、確かに。
マイクやカメラを持って塾生の間を動く役回りの女性乗組員からも、同じ気配を感じていました。

一方、わたしの左側にはたいてい見学仲間が座っていて、入社して数カ月という男性乗組員だったり、手帳を担当しているという女性乗組員だったりしました。

乗組員の方が、なぜ?
「ふだんあまりコンテンツの話を聞く機会がないので。永田さんの話を聞きたいな、どんなことを話すのかなって思って」

ああ、そうか。こうやって価値観が共有されていくんだな。80人クラスの最初の授業で篠田さんが言っていた「ルールがないと人は考える」という言葉が、ふと浮かびました。

話を授業に戻します。
最初に課題についての説明や解説がありますが、この導入部分は極めて簡潔で、メインは塾生と永田さんの間で交わされる質疑応答です。基本的には淡々と進みます。たぶん永田さんの口調が淡々としているためです。

でもやりとりを聞いているとその口ぶりとは裏腹に、永田さんが相当長い時間とエネルギーを惜しみなく塾に注いでいることが分かります。

だれかが手を挙げて、自分のコンテンツについての講評を求めます。塾生は、名前を名乗ったり、自分のコンテンツのタイトルを言ったりするのでが、永田さんは塾生の顔を確かめた時点で、手元のパソコンでコンテンツを探し始めていました。みんなの顔と名前が一致していたのだと思います。

そして「ここに○○と書いてあるんだけど、次の回には××とあって、そこが分かりにくかった」とか、「この一文は、読者へのフォローになっていたと思う」とか、「なぜこうなのか、もっと説明して欲しかった」とか、とても具体的に指摘を始めるのです。ふわっとした印象論ではなくて。どのコンテンツの、どこに、なにが書いてあるのか。永田さんは完璧に頭に入れているように見えました。

そのうえ、率直でした。
あるコンテンツの書き出しについて「この問いかけ、本気? 本気で読者に問いかけているの? 」と言い出したときは、はらはらしました。永田さんはやや詰問調で、たたみかけます。「それからここ。『書き出しっぽいこと』を書いている感じがする」。言われたほうは、しどろもどろです。塾生をお客さん扱いしていたらできません。そして永田さんがダメ出しの理由を一つひとつ、ていねいに説明していくと、教室に納得感が広がっていきました。説明に説得力があったのはもちろんですが、永田さんの「本気」がちゃんと伝わったのだと思います。

このときのやりとりは、授業後、数人の塾生とおしゃべりをしたときに話題になりました。

「あれ、すごかったね」
「うん、すごかった」
「でもさ、言ってもだいじょうぶ、と思っているから言えることだよね」
「そうそう。塾生のこと、信頼してくれてるってことだよね」

言われた本人も「最初は、えっ? えっ? って思ったけど、でも本当にそうだな、って。ありがたいですよね、ちゃんと言ってもらえるのって」と、うれしそうに振り返っていました。

「信頼」は、塾のキーワードだったと思います。いろいろな文脈で、何回もこの言葉を聞きました。
「数字を伸ばすより信頼されることが大事」
「ほぼ日という場に対する信頼」
「(コンテンツの)入り口で信頼を得られるか」
メモをとったノートを最初から読み返して拾ってみたら、14回、出てきました。

「信頼」に近い使われ方で、「うそがない」「それは本当のことか」という言い回しもたびたび登場しました。こちらは12回、書き留めていました。

「信頼される」と「うそがない」。どちらも特別なことではありません。むしろ当たり前のこととして、大切にしたい価値観です。コンテンツづくり以前に、人として。でも、そこにいつも誠実であろうとすると、自分に甘いわたしの場合は、恥ずかしながら努力が必要です。

それを、ふつうにやっているんだな、ほぼ日は。
そういうほぼ日だから、生まれてくるコンテンツなんだな。
「ほぼ日らしいコンテンツ」が先にあるのではなくて、結果として「ほぼ日らしいコンテンツ」になるんだな。

ほぼ日のコンテンツは、たぶん、ほぼ日のありかたそのものなのです。だからノウハウだけを教わろうとしても混乱するし、消化するのが難しいのだと思います。

問われているのは、なにを根っこに持っているかということ。根っこがないまま方法論だけを追いかけても、いつか読者を裏切ることになる。塾で過ごした時間を思い返しながら、いまわたしはぼんやりと、そんなことを考えています。

考えているのですけれども……違うかな。

永田さん、乗組員のみなさん、違っていたら、第3期の授業で訂正してください。

ここまで読んでくださったみなさん、ぜひ第3期に参加して、ご自分の目で、耳で、心で、確かめてください。最後にもう一度書きます。もし少しでも塾に引っかかりを感じているのなら、とにかく申し込むことを心からお勧めします。

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