- 糸井
- 田中さんは、これからスタンスが変わりますよね。
- 田中
-
そうなんです。
「会社でコピーライターをやっていて、
そのついでに何かを書いてる人」ではなくなって、
じゃあどうするんだ、っていう岐路に立っていますね。
- 糸井
-
2つ方向があって。
「書いて食べていけるようにする」、いわゆるプロ。
それから、食べることと関わりなく、自由に書く方向。
- 田中
- そうですね。
- 糸井
-
ぼくもそれについてはずっと考えてきました。
で、ぼくは後者、アマチュアなんですよ。
「書いて食おう」と思った時に、
自分がいる立場がつまらなくなるような気がして。
「お前、ずるいよ」って言われるような、
プロじゃない場所にいないと
いい「読み手の書き手」にはなれないと思って、
ぼくはそっちを選んだんです。
田中さんはどうなるんでしょうねぇ。
- 田中
- そうですね。
- 糸井
-
どっちに転んでも全然いいわけです。
ぼくがちょっと大変だったのは、
「書き手」っていうものに対して、
人ってある種のカリスマ性を要求するんですよ。
- 田中
- わかります。
- 糸井
-
ぼくはそんなのどうでもいいので、
その順列からも自由でありたいなぁっていう。
だから、超アマチュアっていうので一生が終われば、
ぼくはもう満足なんですよ(笑)。
- 田中
-
その「軽み」をどう維持するか、
糸井さんはずっとその戦いだったと思うんですよ。
あの‥‥まだもの書くようになってたった2年ですけど、
書くことの落とし穴をすでに感じているんです。
「ぼくはこう考える」と毎日書くうちに、
だんだん独善的になっていくんですよ。
- 糸井
- なっていきますね。
- 田中
-
そうなった果ては、
左右どちらかに振り切ってしまうんですよね。
フレッシュな書き手が、
真ん中あたりで心が揺れているさまを
とてもうまく書いてくれていても、
10年くらい経つと振り切っていることがたくさんあって。
- 糸井
-
世界像を安定させたくなるんだと思うんですよね。
でもそうなると、
夜中に手を動かしている時の全能感が、
生活の中まで追いかけてくる。
世界像を人に押し付けられるような偉い人、
というところからは、ぼくは逃げたい。
「何でもない人として生まれて死んだ」っていうのが、
人間として一番尊いことなんじゃないか‥‥。
この価値観は、ぼくの中でどんどん強固になっていきますね。
- 田中
-
「書く」という行為自体が、
はみ出したり、怒ってたり、ひがんでたりするんです。
それを忘れてしまうと危ないですよね。
- 糸井
-
それは、書き手として生きていない、
読み手の考え方ですよね。
- 田中
-
そう、そう、そうなんです。
ぼくは読み手だから、
世の中をひがむとか、言いたいことがはみ出すとか、
何か主張があるわけではないんですよ。
映画評とか書いていると、
「田中さん、そろそろ小説書きましょうよ」
と言われることもあります。
だけど、やっぱり別にないんですよ。
「これが言いたくて俺は文章を書く」っていうのはなくて。
「これいいですね」
「あ、これ木ですか?」
「あぁ、木っちゅうのはですね」
っていう、ここから話がしたいんですよ、いつも。
- 糸井
- お話がしたいんですね(笑)。
(つづきます)