「武蔵境」について考えるとき、
頭に浮かぶ場面がある。
それは、20歳の夏の夜のこと。
母が育った「武蔵境の家」の台所のテーブルで
祖母とふたり、
駅前のお惣菜屋のおかずをつついていた。
祖父はその2年前に亡くなっていた。
透明なビニールのテーブルクロスが
ぺたぺたっと腕や膝にくっつく。
クーラーのない台所は蒸し暑く、
座っているだけで汗が出た。
私は秋までの6週間、
「サカイの家」に世話になっていた。
他に家族がいない状況で祖母と時間を
過ごすのははじめてのことだった。
武蔵境で暮らし始め、
祖母が毎食を1時間かけて食べることを知った。
そのあとに医者からもらった薬をゆっくりと
1錠ずつ飲むのに、また30分。
私はどれだけペースを緩めても
15分ほどで食べ終わってしまうが、
できるだけテーブルに残り、
祖母と「会話」する場面を作ろうとした。
昔から冗談が飛び交うような家ではなかったが、
ようやく祖母とも笑みを交わし
「本音」に近いものも会話に交えられる
ようになった頃だった。
「会話」と言っても、私はあくまで
「聞き手」としてその場にいたように思う。
祖母の話は、細かいディテールまで、
内容がほぼ決まっていた。
子供の頃から抱えてきた体の不自由について。
田舎の高松の、戻ってこない日々の話。
娘(私の母)が遠く離れ、
祖父が亡くなってからの寂しさについて。
目に涙をためて語る、戦争の話。
つらい、ということを隠さない祖母だった。
今となれば貴重な話を、
繰り返し聞いていた20歳の私は
「もっとこう、他にないのかな…」と
思ったりもした。
祖母と「つながる」何かを求め、話題を探した。
NHKを決まった時間にしか見ない祖母は、
目が弱いため本を読まず、映画も当然観ない。
料理は腰を悪くしてからしなくなったと言う。
旅の話をすると「おじいちゃんが生きていた頃は…」となる。
おじいちゃんが生きてた頃はそんなに
仲良くなかったじゃん…
とは言わずに、私は話を聞いた。
そうだ、「結婚」について、
おばあちゃんの意見を聞いてみよう。
「女」としてのおばあちゃんの、面白い話が聞けるかも。
「もうそろそろ私も結婚を考える年だしさ…」と
切り出したところ、ふだんとは少しちがう、
決して弱々しくない口調で祖母が言った。
「日本人と結婚しなさい。アメリカ人はダメよ。」
箸が止まった。
古いラジオからいつも流れていたNHKがその時も、
時間か天気かを知らせていたように思う。
「…」
もしかするとそれは、
そこまで重く受け止める言葉では
なかったかもしれない。
祖母も、ご飯を食べ続けている。
でも、私にとってはショックが大きかった。
なぜなら、20歳になった私は「アメリカ育ち」だったからだ。
4歳からは、アメリカが私の「ホーム」だった。
それを否定された気がした。
(つづきます)