ボサノバをつくった男。
ジョアン・ジルベルトが日本にやってくる!

もうすこし、ジョアンのこと。
なぜ「日本」なのかな?


──彼はすごく、
  特別なコミュニケーションの仕方を
  持ってると思うんです。
  あのコンサート、
  ひとり対5000人のコンサートなんだけども、
  1対1のコンサートみたいに
  僕は聞こえたんですね。
  お客さんとジョアンとの、
  1対1のコンサートが5000あった。
  ジョアン・ジルベルトも、
  1対5000のマスとしての
  何かを受け取ったんじゃなくて、
  ひとつずつ、受け取ったような気がします。
  (プロデューサー・宮田茂樹さん 談)




ほぼにちわ。
あとひと月もすると、
ジョアン・ジルベルトが日本にやってきます。
初夏のリオ・デ・ジャネイロから
初秋の大阪と東京へ、
12時間の時差を超えて、
ジョアンがやってきます。

では、もうすこし、ジョアンの話を、続けていきましょう。
今回は、プロデューサーの宮田茂樹さんにうかがった、
「なぜジョアンは日本公演を決意したんだろう」
というお話です。

  宮田茂樹
1951年東京生まれ。
レコード会社
「ディアハート」主宰。



初にジョアンの招聘をお願いしたのは
2000年の11月頃でした。
ジョアンのもとの奥さんのミウシャから、
「ジョアンが日本に行きたがっているよ。
 だから声をかけてあげてね」という話があって、
それでリオデジャネイロまで行ったんです。
そのときは、本人と会ったわけではないけど、
その周辺の人たちといろいろ話をしました。

ジョアンを呼ぶにあたっては、
当時のぼくには、心配ごとがいくつもありました。

そもそも、リオと東京では、距離がすごくある。
だからまず日本に行きたいという、
そして公演をしたいという本人の意志が
ちゃんとあるということが前提になります。

それと、呼ぶにあたって、
いろんな伝説がつきまといました。
キャンセル、気まぐれ、人嫌い。そういう噂です。
いまだったら、そんなことはないと確信できますが、
当時のぼくはその噂を信じていいものかどうかも
わからなかった。ほんとうだとするならば、
公演がぎりぎりになって
中止になる可能性もありますよね。
そういうリスクを負ってまでも
やれるかどうか、ひじょうに重要な問題でした。
こちらが腹を括れるかということです。
ジョアンが来ますよ、と発表しちゃって、
やっぱり無理でした、すみませんでした、では
済まないだろうなって。

無理してやるのはやめとこうよ、という話も出ました。
それでも面白いからやってみようよっていう話も出る。
その天秤でした。
結局、こんなに素晴らしいアーティストの
初来日公演だなんて、価値のあることは、
リスクもあるけれどもやってみよう、
という声が大勢を占めたので、
ぼくも背中を押されるようなところで、
覚悟しようと思ったんです。

「ジョアンはコンサートをキャンセルする」
という噂については、
誤解だということがはっきりしました。
ぼくらも実はエージェントから言われたんです。

──ジョアンは、特別だけど、
  変人でも奇人でもないよ。
  コンサートをキャンセルしたって?
  どこでキャンセルしたんだか、
  言ってごらんよ。

そうなんです。
すくなくともぼくらが調べた範囲では、
この15年間ぐらい、
ジョアンがコンサートを
キャンセルしたことはないんです。
前にお話ししたように、
開演時間がすごく‥‥遅れることはあるけれど(笑)。

来日の話が実現するまでにも
やっぱり、時間がかかりました。

ミウシャがぼくに言ったのは、
「ジョアンは、日本に行きたいと、
 前から思っていたのよ。
 でも、誰も言ってこないの」ということ。
ぼくらはその前に、
ジョアン・ジルベルトが来るという噂を
何回か聞いてたんだけども、
どうやら本人のところには1回も
正式な話は行ってないらしいということがわかった。
それで──2001年に来日をしてもらおうと
契約書を持ってリオに行ったんですけど、
残念ながらコンサートの実現にはいたりませんでした。
でも、それがあって、
今回の話につながっていったんですね。
今度はミウシャではなく
ジョアンのエージェントから、
ジョアンが日本に行きたいと言ってるよ、
ということを聞きました。
そこから始まったわけなんです。



ぜ、また、日本なんでしょうか。

彼は、日本に来たのは2003年が初めてだったけれど、
そして、これは僕の印象なのですけれど、
ジョアンって、もともと日本のことが
好きだったんだと思うんです。
日本とは、まったく縁はないのだけれども、
よく西洋の人にはありますよね、
日本の文化や歴史に対する憧れのような感覚。
東洋のことはよく知らないけれども、
科学技術は発達している、いい電化製品がある、
その一方で、精神的な文化がある。
禅とか、サムライとか、空手とか、
そいう不思議なミクスチャーの国、日本。
そういうものが好きだったのだと思います。

そして初めて日本に来てみたら、
東京はとてもモダンな都市だけれど、
お客さんの反応は、
西洋とは明らかに違っていることを感じて、
もっと、好きになってくれた。

ジョアン・ジルベルトのような人が
日本を好きになってくれた、ということを、
すごく喜ばしく思うんです。
一方で、彼が思い描いているような
日本じゃ、ないんだよ、
という恥ずかしさみたいなものは、
2004年を生きている日本人として、あります。
けれども、ぼくは、ジョアンが、
いい日本を抽出して見てくれたような気がします。
お客さんの反応もそうだし、
彼が目にしたもの、自然と文明の調和とか、
昔の日本と言ったら変だけれど、
ぼくたちが誇りに思える日本を
彼は見たのだと思います。



うじき、彼がまたやってきます。
あの演奏がまた聞けるんです。
ジョアンがどんなにすごいかというのを
ことばであらわすのはとても難しいのだけれど‥‥
「ボサノバ = ジョアン・ジルベルト」だし、
「ジョアン・ジルベルト = ボサノバ」
ですよね。
あのギターのパターンを
考えついてしまった人なんですよね。
たとえば上海で、たとえばオスロで、たとえば大阪で、
ジャズ・クラブみたいなところで
名も無い誰かが弾いているギターのパターンが
じつは、ジョアンの発明したものだったりするんです。
いま日本で流行っているカフェ・ミュージックも、
ジョアンがいなければ、なかったと思う。

音楽の世界で、あるひとつの「様式」を
考えた人が、いまも現役でやっているというのは、
ほかに、例がないことなんです。
いま、それを目の前にして、
より進化したかたちを見ることができる。
どこにも刻印はされていないけれど、
ジョアン・ジルベルトが生み出した
「これ」が音楽にどれくらいの影響を与えたか、
というと、もの凄いものだと思うんです。

いまや、演出されたステージっていうのが普通でしょう?
台本どおりに進み、アンコールの曲も決まっていて。
ジョアンのステージは、そういうのとは違うものなんです。
ジョアンの音楽を生で聴くということは、
音楽が、生まれる、
その瞬間に居合わせるということだから。



宮田さん、どうもありがとうございました。
最後に、気になる今年の曲目について。
もちろん、ステージが始まる瞬間まで、
いや、始まったあとも、どの曲が歌われるのかは、
ジョアンその人にしかわかりませんが、
貴重な宮田さんの証言をひとつだけ。

──そうそう、ジョアンが、去年と今年では、
  曲目を変えると言っていましたよ。


また次回。

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2004-09-06-MON


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