第5回 「対立」が起きたとき、私たちは。
糸井 いま世界中、あるいは日常で、
さまざまな「対立」が見受けられます。
そこには非常に危機的な「対立」もあれば、
関係がいい方向に向かうための「対立」も
両方あると思うんですが、
「対立」についてぼくは、
さきほどダイアモンドさんがおっしゃったような
正しい「比較」の視点を持てていなかったり、
自分を冷静に捉えられていないときに起こるのでは?
と、思うんです。
そのあたりの「対立」ということについては、
どう、思われますでしょうか。

ダイアモンド それについては、2つの答えを思いつきました。
短い答えと長めの答えがあります。

まず、短いほうですけれども、
先週イギリスに行ったときに聞いた話で、
作家のジョージ・バーナード・ショーの
言葉なのだそうです。
「知的な人は常に
 何が正解かはわからない、と考える。
 何かに強い確信を持つのは
 いつも知的でない人のほうだ」
これが、ひとつめの回答です。
糸井 なかなか強い印象を与えるフレーズですね。
ダイアモンド もうひとつは、長めの回答です。
今度の本でも書いた話ですけれど、
「対立」にどう対処するかが、
ニューギニアなどの伝統的な社会と、
日本やアメリカといった先進国のあり方では
まったく違うんですね。
糸井 そうなんですか。
ダイアモンド ええ。
多くの伝統的社会において、
「対立」の相手は知り合いです。
社会の規模が小さく、
一生を数百人以下のコミュニティで暮らすわけですから、
そのときの「対立」の相手というのはたいてい、
もともと知っていたり、誰かと親しかったり、
何かの関わりがあったり、という存在なんですね。
そうした社会で「対立」が起きてしまったとき
大切なことは、「関係をどう修復するか」なんです。
糸井 ああ、なるほど。
ダイアモンド 一方、日本やアメリカなどの先進国の社会で
「対立」が起こったときに大切なのは、
「どちらが正しいか」です。

日本やアメリカで交通事故があったら、
事故の相手というのは基本的に
初めて会った、知らない相手です。
その後の関係も、まずありません。
だから相手が怒ろうが泣こうが関係ないわけで、
「どちらが正しいか」の考えのもとに
「対立」を解消しようとします。
警察や裁判所の考え方も
「どちらが正しいか、間違ってるか」
の上に立脚していますよね。
糸井 たしかに、そうですね。
ダイアモンド 本で紹介した事例なのですが、
私にはニューギニアで事業を営んでいる
友人がいるんです。
あるとき、その友人の会社の社員が
10歳の男の子を車でひいてしまった。
物陰からその子が飛び出してきて、
ブレーキは引いたんだけれども、
気づいたときには遅くって
結局、男の子は亡くなってしまった。

アメリカであれば、すぐその友人は
まず事業主として弁護士を雇い、
「どうやって社員を弁護するか」
という考えに集中していたでしょう。
亡くなった子供の遺族との関係づくりなど、
微塵も考えないと思います。
ところが、この事故が起きたのはニューギニアです。
全く対応が違いました。
糸井 はい。
ダイアモンド まず事故の翌日に、
亡くなった子供のお父さんが
友人の会社を訪ねてきたのだそうです。
そのとき友人は
「殺される!」と思ったそうなんですが、
そのお父さんがやってきた理由は、
こういうことでした。
「おたくの社員が事故を起こし、
 うちの子供が亡くなりました。
 わざとやったことでないのは、わかります。
 けれど現在、私たち家族は
 非常につらい気持ちの中で暮らしています。
 ですから4日後に子供のことを偲んで
 昼食会を開こうと思っています。
 そこへ、来ていただけないでしょうか。
 また、その昼食会の食べ物を
 出していただけないでしょうか」
そういう話だったんです。
糸井 はああー。
ダイアモンド それからは、あいだに経験豊かな人が入って、
どんな食べ物を持っていくべきかといった話がなされ、
なんと事故が起こってわずか5日後に、
その社長である私の友人や、幹部の社員、
それから亡くなったお子さんのご両親や親戚が
同じ食卓を囲んで、お昼を共にしたそうなんです。
これはアメリカだと考えられない話です。
糸井 はい、はい。
ダイアモンド 昼食会では、ひとりずつが弔辞のように
その子のことを想ってスピーチをしました。
たとえばその子のお父さんが
亡くなった子の写真を持って
「死んでしまって、本当につらい。
 さびしい。また会いたい」
といった話をしたりとか。
その場にいる人たちが
亡くなった子供のことを想って
みんな、泣いているわけです。

そして、私の友人にも
スピーチの番がまわってきたそうです。
彼はもう、あとで振り返っても
あんな辛いスピーチをしたことはなかったと
言っていましたけれど、
絞り出すように
「‥‥自分にも子供がいます」
と、はじめたのだそうです。
そして、
「だから、突然に子供を失う気持ちというのは
 ほんの多少ですけれども、
 私にも察することができます。
 今日はこうして食べ物を持ってきましたが、
 こんなものはお子さんの命に比べたら、
 ほとんど価値のないものだと思います」
と、そんなスピーチをしたそうなんです。
糸井 はあああー。
ダイアモンド 言ってみればこれは、
感情の処理をとても重視した
「対立」の解消方法であるわけです。
その場でお互いに泣くことによって、
互いの痛みが共有できますし、
亡くなった子供の家族や親戚たちからしても、
社長である私の友人が
「ことが無事済んでよかった」みたいに軽々しく
思っているわけではないとわかります。
また、その社長や、事故を起こした社員自身も
「ひどいことをした」という心の傷を
過度に背負うことなく暮らしていけます。
糸井 はい、はい。
ダイアモンド こんなふうに、伝統的社会では
「対立」が起こったときに
「お互いの感情をどう処理し、
 どう落ち着かせるか」に重きをおきます。
ですが、先進国においては
「どちらが正しいか、間違ってるか」が何よりの争点で、
それぞれの感情の処理には
まったく思いをめぐらせないんですよね。
糸井 伝統的社会と先進国の社会について、
ダイアモンドさんは、どちらがいい、などとは
書かれていないわけですよね。

ダイアモンド まさに、本では全編を通して
「どちらがいい」という話はしていません。
ただ、個人的にいいなと思うところは
それぞれにあります。

たとえば先進国の社会の方が、
人々の寿命がはるかに長いです。
また、初めて会った人とも
お互いに学びあえるのも、
いいところだと思っています。
今日も糸井さんと私は初めて会って
こうしてお話ししていますけれど、
もし伝統的な社会であれば
知らない人同士が会うというのは、
会ってから1分以内に糸井さんが私を殺すか、
私が糸井さんを殺すか、でなければ互いに逃げるか、
どれかだったはずですから。
糸井 (笑)
ダイアモンド 一方私から見て、子育てのあり方や、
危険をよりクリアに捉える力というのは、
逆に伝統的社会の方に先進国の社会が
学ぶところがあるように思います。
また、電話などの間接的なやり方ではなくて、
みんながとにかく
直接会ってたくさん話をする習慣とか、
老人がみんな幸せそうに見えるというのも、
私はとてもいいところだと思います。
糸井 うん。そうですね。
ダイアモンド ただし、自分のことを思うと
私はロサンゼルスで暮らして、
ときどきニューギニアを訪れているわけで、
逆ではないんですね。
だから、それが自分の選択でもある、
ということなんだとも思います。
物理的な便利さや、音楽をたのしめることとか、
子供たちの教育のことを考えて、
私はそういうやりかたを選んでいるんです。
糸井 ええ、ええ。
ダイアモンド まあ、物理的にはだいたい
自分の時間の9割をアメリカで過ごしながらも、
気持ちは9割、ニューギニアなんですけど。
糸井 (笑)はい。

(つづきます。)


2013-03-08-FRI

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