ITOI
糸井重里の脱線WEB革命

第15回
釣りをすることと、コンピュータ。(その3)

前回、たぶん来週ね、と書いたのに
1週間ふっとばしてしまいました。

釣りから、予想通りのノーフィッシュで戻ってきて、
眠い目こすりながらこの原稿にとりかかるのはツライ。
「へたなんだから、しょうがねぇだろ」と言われそうだが、
その、言われるほど下手なわけじゃないんだ、という、
見栄もあってさ、気持ちが浮かないのね〜。

でも、やる。サブリシンはめげちゃいけない。
釣りをはじめたら「食」に
対する気持ちが変化しましたという話。
そうだったそうだった。

それまでのぼくは、食い物については、
うるさいというわけではないけれど、
なんでもいいよという人間ではなかった。
いわゆるジャンクフードとか、
ファーストフードというものは、
「非常用の食料」だから、
それを食べるのは他に方策が尽きたときだと考えていた。
いわば、緊急避難というやつだ。
どこか、「本来のめし」とはちがうものだ、
という気持ちがあった。

それは、食は文化であるという考えが底にあったからだ。
その考えはいまでも変わっていないのだが、
この考えをいつも一貫して押し通せるほど、
ぼくらは豊かな時間と金銭とを
持ちあわせてはいないと思うようになったのだ。
「そんなインチキくさいものを食うくらいなら、
食わない方がましだ」なんてことを言う人もいるが、
現役でいま働いているおじさんなら、
そうも言ってられないこともわかっているはずだろう。

ひとつの食材の良し悪しを吟味する
「食の専門家」たちの仕事を、
ぼくは尊敬している。
だし昆布の一片でも、しじみの一粒でも、
ある水準を保つための苦労や努力を買って出ている
生産者がいるし、
それを理解してセレクトする料理人がいる。
そのことを、いちばんわかってないのは
「金だけ持ってる客」なのだろうと思う。
どんなに高度な芸術でも、文化財でも、
ほとんどは金で買える。
理解も尊敬もなしに、
投機の対象として絵画を買いあさることと、
有名ブランド化したレストランや料亭で
「ぼかぁ、くいものにだけはうるさいんですよ、
わっはっは」
と高級食材を食い散らかすこととは、
同じだと言えないだろうか。

ぼく自身も、「わっはっは」とは言ってないけれど、
できるだけいつでもうまいものを
食いたいと考えていたし、
いまでもかなり本気でそう思っている。
しかし、そういうものを追い求めて行くには、
ヒマとカネがいる。
さらに、ヒマとカネが潤沢にあると、
食べ物のひとつひとつを味わったり、
おいしさに感動したりすることも
少なくなってくるものだ。
自分がそういう立場に立ったことがないから
想像でしか言えないけれど、
そういうものなんだろうと思う。

だから、「ごちそう」は「たまに」とか
「ときどき」にして、
おいしい「ジミごはん」を日々いただける
というのが理想だと思う。
しかし、それにしたって実現するのはたいへんなことだ。
いい材料と、時間に余裕のある料理人がいなければ
(その料理人が自分であっても)
満足のいく「ジミごはん」などはできやしない。
食い物をまじめにあつかおうとすると、
かなりたいへんなのである。
料理の腕は超一流のプロに負けない専業主婦、
なんて人が必要になる。
よく、なにやら評論家みたいな人が
「おかぁさまのこころのこもった家庭料理を」
なんて平気で言ってるけれど、
おまえはどうしてるんだよう! 
とツッコミを入れたくなる。

自分が「食は文化だ」と考えていて、
しかもその文化を尊重して現実の暮らし方を
組み立てていこう
などと思っていたら、働き盛りのおとうさんは
パニックに陥ってしまわざるを得ない。
ま、理想と現実の乖離ってやつでしょうかね。
で、結局どうなるかというと、
食い物を前にして「うんちくをたれ流すおやじ」やら、
「グルメ気取りのヤンエグ」やらが、
大量に生まれてしまうわけです。
口だけで講釈をたれていれば、
文化を大切にしている自分という存在を証明できるし、
「こんなものは食事じゃなくてエサだよ」とかいいながら
ハンバーガーを囓っていればいちおう腹はふくれる。
いっぱいいるでしょ、こういう人が。
ぼくも境界線をうろうろしてる人間でしょうがね。

この袋小路な「食意識」が、
釣りをはじめるとぶっとぶわけだ。
いつだって、緊急避難的な食事なんだもん。
ゆっくりおいしいものを食べようなんて時間があったら、
一回でも余計にルアーをキャストしたいんだもの。
そりゃ、高級料亭の弁当を誂えることだって、
料理の上手な人(たぶん妻とか愛人とかでしょう)に
こころをこめた弁当をつくってもらうことも、
絶対にできないとは言いませんよ。
自分で一所懸命につくったっていいや。
でも、しょっちゅうは、無理! でしょう。
年に一度の運動会や遠足じゃないんだから。
週に一度とか、急に思い立ってとか、
チャンスがあればいつでも釣りに出かけたいんだから。
だから、コンビニのおにぎりとか、
朝も開いてる牛丼屋とかファミリーレストランとかに、
ごく自然にお世話になるわけですよ。
こうなると、もう、文化もハチの頭もなくて、
「ある」「食える」「開いてる」というだけでありがたい。
めしがあるってうれしいねぇ、になってくるわけだ。
こんな状況でグルメめいたことを
ブツブツ言ってるやつがいたら、
「ぜいたくいうんじゃないっ!」と、一喝ですね。
釣りの帰りにうまいものを食うのはOKよ。
でもね、現場でこうるさいことを
言うんじゃないって雰囲気です。

このことが、もう、爽快だったわけ。新鮮。
やっぱり、
いつでもどこでもうまいものを食おうなんて、
貴族じゃないんだからね。
元来、無理だったわけですよ。
それに気づくわけです。
しかも、うまいだのまずいだの
言ってられない状況を経験すると、
たまにいただく「ごちそう」が実に
「ごちそうっ!」って思えてくるんです。

こんなことがわかりかけてきた頃に、
おもしろい話を聞いた。
文字どおりいまをときめくTK氏が、
スタジオにこもりっきりで
レコーディングをしていたりしますよね。
もういやっつーくらい働いて、
「さぁ、食事にいこう」と、
ほっとする時間ができる。
「ぼくがおごるから」・・・やったーっ、
大金持ちが食事をおごるわけですから、
まわりのビンボー人はなんだなんだの
わいわいわいです。
どんなすっごいごちそうなのかと思いきや、
「マクドナルド」に食事ツアーの終点はあった。
「みんな、好きなものを食べて」。
しかも、当のTK氏が率先して、
「おいしいねぇ」と感動しているのだそうだ。
この話が、どこまでツクリなのかは知りませんよ。
でも、かなり本当らしい。
なんか、現代芸術家のアンディワーホールが、
「僕は、リーバイスのジーンズが作りたかった」
と発言したという伝説と、
近いものさえ感じるんでした、ぼくは。

昔の「サクセス・ストーリー」と
セットになっていた「食の貴族化」は、
もう古いんだろうなぁと、
こんなところでも思ったのでした。
食ばっかりじゃない、
貴族のまねをするのは、
カッコわるいしいまの時代状況に合わない。
合わなくてもいいけれど、
それをやり通すだけの「貧乏貴族」の決意も
美意識もないのなら、
自分の生まれ育ちにフィットした
「安楽」「快楽」「幸福」を
自前の基準で見つけなおすのが
スジってもんじゃねぇだべかと、
しみじみ思ったわけさ。

東北への旅の寸前にあわてて書いたので、
それこそ読み返しもしないで掲載です。あははは。
ま、ウソ言ってるわけじゃないから、
不完全なのはお許しを。

次回は、タイトルの通りならば
釣りに関係した出だしでコンピュータのことを書く予定。
できるだけ、1週間以内にやるますです。

1998-10-30-FRI

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