ITOI
糸井重里の脱線WEB革命

第14回
釣りをすることと、コンピュータ。(その2)

前回は、釣りというものが、
想像していたよりもずっとハードでタフな遊びであった
ということについて書いた。

今回は、釣りをして変化した生活スタイルについてだ。

まず、驚いたのが、
早起きが苦手だったのに早起きをしている自分にだった。
誰でもたいていの人は、
朝の5時だの4時だのに集合しようなんて言われたら、
いい顔はしないだろう。
早起きが得意と自称している人だって、
せいぜい6時起きくらいのことを自慢しているものだ。
一時のぼくは、
「午前中の会議は自信がないから入れないでね」
なんて、マネージャーに釘をさしたりしていたくらいだ。
しょうがねぇやつだった。
それが、現地に5時ね、なんて平気で約束している。
ゴルフの好きな人たちも、
同じような経験をしているらしいが、
まさか、自分自身にこんな大変化が起こるとは、
ほんとうに我が身が信じられなかった。

やればできるんじゃないか?!
早起きだけは苦手、と思いこんでいた自分に、
「いままでは、さぼってただけなんじゃないの?」と、
少しきついツッコミを入れざるを得なかった。
できるとかできないとか、
自分の可能性を狭い範囲のなかに閉じこめることを、
自分がやってきたんだなぁ、
ということがバレてしまって、
困ったけれど、ちょっとうれしかった。

同様に、クルマの運転についても、
こころの変化を発見してしまった。
ぼくはドライブの好きな人間ではない。
大嫌いというわけではないけれど、
他の人が運転してくれるなら、ぜひそうしてほしいと
考えてるようなドライバーである。
こんなぼくの連続走行距離の目安は、100キロだった。
「うれしくはないけれど、100キロの距離なら、
我慢して運転してもいいかな」くらいの感じ。
しかも、その100キロを運転するためには、
その前に十分な休養をとって体調万全でないとだめなんだ、
と、これも決めていたわけだった。
それが、早起きと同じように、
「そんなこと言ってられない」となったら、
当たり前のようにどこまででも、
いつでも走るようになった。
早起きと同じように、
「たいしてイヤでもない」と
思うようになってしまったのだ。
これも、決してうれしいとは思わなかったけれど、
「いやだ、だめだ」と決めつけていた自分に、
ちょっと生意気なんじゃなかった?
とツッコミを入れた。

男が年をとると、
自分でするべきことと、
自分でしなくてもいいことを、分けるようになってくる。
本人がそうしようと思わなくても、
周囲がそういうシステムを自然に押しつけてくる。

ハイヤーは、
運転手さんが運転席からとぶように走ってきて、
後部座席のドアを開けに来る。
自分より年下の人と歩いているときには、
その人が荷物を持ってくれようとする。
旅行の切符やホテルの手配などは、
会社の誰かがやってくれる。
掃除や洗濯は、まったくしなくても暮らせてしまう。
ま、タバコいっぽんに火をつけられない人はいないのに、
火をつけてくれようとする人がいる、ということだ。
そうやって、自分でもできるようなことを手伝って、
そのことで仕事をしている人がいるわけだから、
拒否したら営業妨害になってしまうかもしれない。
だから、たいていのサービスされる側の人たちは、
「どうぞ、わたしにサービスをしてください」
という態度で、
システムの循環をこわさないようにしている。
ぼくだって、そうしてきた。

だが、「ま、いいか」でサービスを受けているうちに、
錯覚しはじめるものなのだ。
マンガに描かれる「あー、きみきみ」とでかい態度で、
人を呼びつけるシャチョーさんやら、議員さんやらは、
現実の世界にはマンガ以上にいっぱいいる。
過剰にサービスされることは、ある意味で快適だし、
自分のパワーを表現するのにとても都合がいいから、
「チカラを見せつける稼業」の人なら、
それをやめるわけにはいかないだろうと思う。
正義派で権力に異議を
となえているようなジャーナリストや、
庶民的を看板にしているような人たちが、
案外「いばりんぼサン」だったりするのは、
見ていていやな気持ちになるが、
長いことサービスされることになれてくると、
自分だってこの快適さから
逃れられなくなってしまうものだ。

しかも、そのサービスを受けるにふさわしい自分を、
正当化するための理屈もある。
「自分の得意なことだけを集中的にやったほうが、
経済効率がいいし、みんなのトクになる」
と言えばよいわけだ。
そりゃね、大事な仕事の山場を迎えているときに、
大掃除の予定がかさなっていたら、
後者のほうはご遠慮しておいたほうが
一族郎党のためですよ。
だけど、なんでもかんでも、
「もっと得意で大事なことがあるから」という理由で、
やらないでいたら、
普通の生活をしている人の
普通の気持ちが理解できなくなる。
「お殿様」ってあだ名の人がいるけれど、
そういうタイプの人というのは、
やっぱり、コミュニケーションを
生業にするのは難しいだろう。

そんなふうな考えを持ってはいたけれど、
男で、中高年という年齢になっているぼくの生活は、
かなりサービスをされることが自然になっていて、
それで固定しつつあったような気もする。
家族旅行の時に、冗談めかして「リーダー」と呼ばれ、
切符の手配やら、
出来もしない英会話での交渉などをさせられるのは、
苦労ではあるけれどとても健康なことだと言える。
しかし、そういう機会は、そうあるもんじゃない。
「いばりや」ではないけれど、
ちょいと偉い人っぽい生活を、
ほんの少しの居心地の悪さだけを感じながら、
かなり長いことやり続けていたのだった。
ま、どっかの親父と同じってなわけですよ。

ところが、釣りをはじめたら、
いっさいのサービスがなくなった。
釣りの支度も、クルマの運転も、
目覚まし時計かけての早起きも、
なにもかもが、自分でやるのが当たり前なのだ。
(そんなこと決まってるジャン、
なんて笑ってるお若い方よ、
君がぼくの年齢になったときに、
もういちど今回の文を読んでみてくれ)

自分のことを自分でやるからこそ、
釣りはおもしろいし、あきずにたのしめる。
思えば、このことを身をもって教えてくれたのは、
あの、今よりもっと小生意気そうな
面構えをしていた木村拓也くん
だったと思う。
何時間か前に、
おおきなコンサートホールで公演をやっていて、
そのままほとんど眠らずに
クルマをころがして釣りにでて、
コンビニに走ってお使いをしてくれるような
不良っぽい若者は、
とてもカッコイイと思った。
年長のマネージャーをあごで使うようなガキの多い
(と思われてる)アイドルの世界にいても、
彼は普通の同い年の若いやつが
どうやって暮らしているかを、
よくわかっていた。
また、釣りという遊びは、そうやってたのしまないと、
たいしておもしろくないものなのだ。

どんな人でも、同じようにつらい目にあって、
どんな人でも、同じようによろこべる。
釣りをはじめたことで、
ぼくは、こんな当たり前のおもしろさを再発見した。

そして、食い物である。
釣りをすると、ぜいたくが言えなくなる。
早朝から、人のすくないほうに向かって出かけるのだ。
コンビニとか、深夜や早朝もやってる
ファミリーレストランが、
唯一の食料仕入先になる。
のんきな親父どもは、
「じゃ、奥様が前の晩かなんかに
お弁当つくってくれて・・・
うらやましいですな」などと、
とんちんかんなことを言うが、
自分は遊びで、自分の好きで苦労をしているのだから、
「奥様」に余計な負担をかけるなんて
出来やしないでしょ。
出来の悪い時代劇の登場人物じゃないんだから、
「あなた、これ」
「おお、弁当か。早起きをさせてしまったな」
「お気をつけて行ってらっしゃいませ」
「ああ、釣果はあてにするなよ、わっはっは」
なんて、あるわけないでしょう。

コンビニがありがたいのである。
ファミリーレストランや牛丼やが、助かるのである。

このへんから、次の回にまわしましょう。
では、また、たぶん来週ね。

1998-10-16-FRI

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