ITOI
糸井重里の脱線WEB革命

第12回
大後監督に会って、感心してしまった。

やっと本題にはいれる。
とにかく毎回書きはじめると
どこへ行くのかわからないので、
今回のように、本題にはいることを約束して
書き出せば、
きっと大丈夫だろうと、期待している。
ぼくは自分のことを、ここまで信用していないのだ。
信用していないということは、
嫌いだというこではない。

大後栄治・神奈川大学駅伝監督とは、
むろん初対面だった。
だいたい、失礼ながら、
大学駅伝チームの監督の名前を知っているほど、
ぼくはスポーツマニアではなかったのだ。
しかし、同席していた座談会のもうひとりのメンバー、
増島みどりさんが、
大後さんの簡単な紹介をしてくれたので、
ああ、そういう人なのかと、
スタート直後からうっすらといい印象をもった。
「大ちゃんは、箱根で、足を痛めていて、
これ以上走ると選手生命に関わるっていう選手を
飛び出してって止めた監督なんです。
クルマから飛び出してったところ、憶えてませんか?」
いや、憶えてないです。すいません。
いつも箱根駅伝のときは海外で正月を過ごすっていう
パターンなので、
日本でなにが起こってたか知らないんです。
でも、大会の優勝候補であるチームの監督が、
ひとりの選手の「選手としての人生」を大事にして、
レースを棄権したなんて話は、
知らなきゃいけなかったなぁ、と早速ぼくは反省した。

スポーツを科学的にとらえている人としてお招きした
ふたりの話は、始まる前からぼくを満足させてしまった。
ぼくとしては、この座談会で、
読者の誰よりも「理知的なスポーツマン」が、
「ほらここにもいるでしょう!」と見せたかったのだ。
スポーツマンは「スポーツばか=脳まで筋肉」
という迷信をぶっ飛ばすための証拠物件として、
「体育会系」を下に見ようとする世間の人たちに
突きつけたかったのだ。

座談会がスタートしたら、
ただもうぼくは感心するばかりだった。
特に、幕を閉じたばかりの長野オリンピックにまつわる
選手たちの戦略や、技術の磨き方の話は、
ホットで興味深かった。
詳しくは(すぐに読みたくなった人は、
増島みどりさんのホームページ
http://www.asahi-net.or.jp/~mu2m-msjm/stadium/
に再録されていますから、そちらへ)、
いずれ「ほぼ日」に再録するが、
ほんの少しここにも引用します。

>増島 ラップタイムってありますね。
>スピードスケートの選手は
>0.何秒でラップをいじるんです。
>400メートルを37.2秒で回ってこいと言うと、
>ちゃんと37.2秒で回ってくる。すごいことですよね。
>これができるのは一握りの選手だけで、
>さっきの白幡選手などがそうです。
>そういう感覚をいかにして体内時計に取り込むのか、
>大後さんに聞いてみたかったんです。

と、増島さんが
「そこの現場で、自分の目で見ていた記者」として、
質問するわけだ。
その時、同席していたぼくは、素人考えだが、
「体内時計という、時間の感覚ではその正確さは
計れないのではないか」と思いながら、
大後さんの答えを待った。

>大後 どういうピッチとストライドで、
>どのリズムでいったら1周を何秒でいけるか、
>そういう感覚が育ってるんです。
>それを、その場その場で把握してレースを組み立てる。
>だから「オーバーペースですね」と
>言う解説者がいますが、
>何をもってオーバーペースと言うのか。
>オーバーペースかいちばんいいペースか、
>選手は自分の体で覚えているんですから。

つまり、時間の感覚をつかんでいるのではなくて、
選手はピッチ(足を運ぶ速度)と、
ストライド(歩幅)を、
修練によって把握しているという説明なのだ。
さらにこの直後に、補足するように、
「それに乳酸値が、
(疲労度によるピッチとストライドの
減衰を計算にいれるために)からんできますけどね」
と付け加えることを忘れていなかった。
こういう人こそが、コーチというものだろう。
科学的であったり、理知的であることは、
冷たいということではない。
「選手には、納得できない練
習はしなくていいと言ってます」
目的と方法に納得がいったときにこそ、
人間は全力を尽くせるものなのだということを、
大後さんは本当によくわかっている。
「天分のある、最高に素質のある人は、
オリンピックでいえば
金メダルをとってない場合が多いです」
金メダルをとるような選手というのは、
やや素質に劣る者が、目的をもって
修練をつんだというケースが
ほとんどでしょうと言う。
ぼくは、いわゆる根性主義は嫌いだけれど、
メダリストたちの努力は、それとはちがう。
夢を「自分の手につかむ」そのリアリティを、
本気に信じているという姿そのものなのだ。

きりがない。
大後さんの話はいちいちぼくの
錆びかけの琴線をかき鳴らした。
そして、座談会の終わりかけのころに、
こんなことを言ってくれたのだった。
「秘密、というわけでもないんですけど、
いままで人に言わなかったことがあるんですよ。
もう、言ってもいいかなと思って・・・」
なな、なんですか?!
ぼくには、いままで聞いたどの話も、
秘密以上の「奥義」のように思えていたのに。
少なくとも、神奈川大学の駅伝の選手たちは、
いままでぼくの知らなかったあんな話こんな話を、
ほとんど知っていたというわけだ。すごいなぁ。
なのに、まだ、
秘密というやつがあるんですかぁああああ??
「はい。たいしたことじゃないんですけど。
つまり、それは、最適な環境のなかに
選手を置かないってことなんですよ」
そ、それが、秘密?
「あえて便利な環境を
追い求めないようにしてましてね。
大学から練習場まで10キロ離れてるし、寮は自炊。
夏合宿は、公民館の畳の部屋に貸布団です。
駅伝の優勝校でそういう
環境でやってるところってないです。
でも常に練習環境にコンプレックスも与えておきたい。
競技に対する考えが甘くなるからです」
なぜ、こんなに苦しい練習をして、
若い日の眩しい時間を駅伝にささげられるのか。
それについては、選手自身が迷うだろうし、
逃げたくもなるだろう。
至れり尽くせりの立派な施設や環境のなかにいたら、
この「なぜ、こんなに?」の答えを、
施設や環境を作った側の
人間に求めてしまうことになりやすい。
それが甘えというやつだろう。
やらされている、という感覚になる。
自分がやる理由を、
自分に納得させるように説明するためには、
「やれることのよろこび」を感じさせるような
場を用意する必要がある。
価値の体系の頂点が、
一般社会のコピーにしかすぎないようでは、
厳しい練習や、倦まずに考え続けることに
耐えきれないのだろう。
よくプロボクシングなどの解説で耳にする
「ハングリー精神」というものを、
現代の日本に、
こういう方法でとりこんでいるというわけだ。

昔のプロ野球選手は、
「グラウンドにはカネが埋まってる」と
いう言い方でモチベーションを
あたえられることがあったらしい。
あくまでも、この場合は、
カネが(世間と同じように)一番の価値なのだ。
それでは、そのスポーツをやり続ける
意味が見えてこない。
宝くじで当てても、レストランを経営していても、
カネなら入ってくる可能性がある。
「なぜ、野球をやり続けるのか?」は、
やっぱりグラウンドに埋まってるカネを
掘り出したいから、
ではない!

そうか、世間の価値体系が金銭万能主義に一元化されて
しまったように思いこんでいたけれど、
実は、そうでない生き方は、
真剣なアマチュアスポーツになかには、
ちゃんと残っていたんだなぁ。
いい施設、いい給料だけで強くなるなら、
やる気になるなら、
バブル期の日本人はみんな金メダルだったよな。

この、大後さんに会った日に、ぼくは20歳くらい
若くなったような気がした。

1998-09-25-FRI

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